進歩と労力の分水嶺

u-book2008-12-10


女学校の教師島崎雪子は、生徒の一人寺沢新子から彼女宛てに届けられた手紙について相談を受けます。その手紙は内容を読めば、甘ったるい、幼稚なラブレターなのですが、新子はこれを自分に書いたのは同級生の誰かではないかと言います。雪子がなぜそう思うのかと聞くと、自分はクラスの中で嫉妬の対象にされていて、このラブレターは自分を試すために書かれたものではないか、と。新子は前の学校で男子生徒とあそんだことが分かって、転校してきたという経緯があります。新子は自分の過去の失敗をさげすむ同級生の気持ちは嫉妬だと考えています。彼女たちが強い関心をもち、しかも経験をしたことが無いことを、自分が経験していることに対する妬みである、と。それを聞いた雪子はもしそれが本当なら、こうした物の考え方(嫉妬からくるさげすみ)はニセ手紙を書いた一人の生徒のみならず全体に浸み込んでいるように思われるから、クラスで公の問題にして扱おうと考えます。

ところが校医である沼田は、雪子の方法に反対意見を述べます。「ぼくなら黙って握りつぶしておきますね。」と。もちろん雪子は反発します。「そのために、一人の生徒が侮辱され、苦しんでいるのに、知らんふりで通せとおっしゃるんですか?」

それに対する沼田の意見がこうです。

「ねえ、島崎先生、ぼくも土地の人間の一人として、貴女のように進歩的な先生にお願いしたいことは、ここらの生徒がどんな環境の中に生きているのかということを十分に考えていただきたいと思うんです。
なるほど、新しい憲法も新しい法律もできて、日本の国も一応新しくなったようなものですが、しかしそれらの精神が日常の生活の中にしみこむためには、五十年も百年もかかると思うんです。いや、具体的に言いましょう。この学校には農村の子女が多いようですが、学校を出る、二、三年して嫁に行く、するとさっきの作文(ニセ手紙を書いたと思われる生徒の作文)にあったように、しゅうと、しゅうとめや小じゅうとたちから嫁いびりをされる、亭主からはときどきげんこで頭をなぐられる、そういう暮しに我慢してやっと自分の思い通りの世帯になり、経済的にも余裕ができたと思うと、亭主が茶屋酒を飲んだり女を囲ったりする……。
ぼくは医者だから、世間の裏側を見せつけられる機会が多いんですが、まあ大体そういうのがここらの女生徒の将来の生活だと思って間違いがないと思いますね。それで、そういう生活に堪えていくには、ある程度バカであることが必要なんですよ。貴女が希望しているように、生徒たちが何から何まで理屈ずくめで物を考えるほど賢くなったら、どこへも嫁づかないで修道院にでも入るより仕方があるまいと思います。ところで、どんなに濁って不合理であっても、修道院よりは浮世の暮しをぼくはすすめたいのですね。
島崎先生なども、いまの考え方で、ここに住まうんでしたら、まずオールドミスになることは免れませんね……」


沼田先生のこの意見は、いまの時代にも通じるものがあるような気がします。何か不合理なことに堪えるには、ある程度おバカさんであったほうが結果的には楽なのでしょう。そうしてみんなが楽をしていたら、進歩はない。進歩はないけど、楽に、少なくとも社会の中で敵を作らず平和に生きて行ける。
どの程度の進歩のためにどれだけの労力と犠牲が払えるかというのは、いつの時代の誰にとっても、重要な分水嶺なのかなと思ったりします。
わたしが島崎先生の立場だったらと思うと、、、頭を抱えるしかないなぁ。。。。




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