読了です。

u-book2009-04-26



ドストエフスキー著『カラマーゾフの兄弟』。世界のあらゆる文学の中でも屈指の名作とされていますが、なるほど、この作品で提示されているテーマは実に広範囲で多岐にわたり、しかも深遠であるために、ここで自分が感想文を書くことは本当に難しいと感じます。もっとも、読書の感想を書くのに簡単だと感じることなどないのですが、この作品は巨編である上に一辺倒の筋道で話が進んでいるわけではないので、自分の意見をどこに照らし合わせようかというところからすでに迷ってしまいます。
しかしそのことも含めて、わたしはこの物語の感想文を書くことを本当に楽しみにしていました。物語の途中から、ともかくこの本の感想文は一生懸命に書きたいと思ったのです。というわけで、まだ今も手探りの状態ですが、とにもかくにも書き始めてみようと思います。


これから書く感想をできるだけたくさんの人に理解してもらいたいので、『カラマーゾフの兄弟』を見たことも聞いたこともない人のために、あるいは読んだけれどもう忘れてしまっている(特に登場人物の名前とかね)人のために、物語のあらすじをわたしなりに簡単にまとめておこうと思います。


一文でわかりやすく片付けてしまうならば、この物語は「カラマーゾフ家の金と女と信仰をめぐる愛憎劇」だと思います。カラマーゾフ家の主な登場人物は四人。父親のフョードル、長兄のドミートリイ、次兄のイワン、三男でこの物語の主人公を担っているアリョーシャ。そして、真相は明らかにはされていないが、フョードルの子だと暗示されている私生児スメルジャコフ。彼らのことをひとりずつ、簡単に紹介しておきます。


<父親フョードル>ある群の地主で、およそ俗物で女にだらしがなく金に汚い人物。群中でも常識はずれの半気違いとして通っていた。彼は二度結婚していて、最初の妻との間に長兄ドミートリイ、二番目の妻との間に次兄イワンと三男アリョーシャをもうけるが、およそ子供のことは放ったらかしで、自分の道楽に夢中なだけで、その存在もすっかり忘れてしまった。しかし自分の資本活用にはとかく熱心で、放蕩三昧の一方で驚くくらい金を貯めこんでいた。


<長兄ドミートリイフョードルと最初の妻との間にできた子。三つのとき母親に見捨てられ、父親にも忘れ去られたため、フョードルの家の忠僕グリゴーリイに引き取られる。その後の少年時代は他家を転々とする。陸軍に入って将校に昇進するが、実家の財産を当てにしてさんざ遊びの限りをつくし、金づかいもかなり派手だった。成年に達するとフョードルから金を受け取るようになるが、それまでに借金をしこたま作っていた。彼が父親であるフョードルを知り、はじめて対面したのも、財産についての話し合いをするために彼が戻ってきたときだった。


<次兄イワンフョードルと二番目の妻との子。やはり幼くして母親を亡くし、しばらくは忠僕グリゴーリイのもとにいたが母親の養育者であった老夫人に弟のアリョーシャとともに引き取られる。老夫人もまもなく亡くなるが、彼女はふたりにそれぞれ千ルーブルずつを遺した。その後二人を引き取ったのはその県の貴族会長で、篤実なその人物はふたりの千ルーブルは手付かずのまま貯金したので、彼らが成年に達するまでには利子でそれぞれ二千ルーブルになっていた。
イワンはかなり早い段階で勉強で輝かしい才能を見せ、十三才のときには会長の家を出て全寮制の中学校に入った。大学まで行くと才気あふれる書評を発表し始め、文壇にまで名を知られるようになった。それからほどなくして父親のもとへ戻ってきた。


<三男アリョーシャフョードルと二番目の妻との子。イワンと一緒に他家で育てられるが、イワンとは違ってずいぶん長い間その家で暮らす。中学に入るが規定の年限を終える前に、不意に父親にもとに帰ってくる。純真な彼は、父親の、見るに堪えぬような放蕩ぶりを目にしても、そっと席をはずすだけで、軽蔑や非難の色はまったく示さなかった。最初父親は彼に対して疑いの目を向けたけれど、二週間とたたないうちに、この息子に深い愛情を抱くようになった。実際この青年はどこに行ってもみなに愛された。ほどなくして彼は修道院に入る。


<私生児スメルジャコフ>孤児リザヴェータが生んだ子供。リザヴェータは口にするのも汚らわしいある出来事の結果フョードルの子を身ごもったとされる。スメルジャコフを生んですぐ母親のリザヴェータは死んでしまい、赤ん坊の彼を引きとったのは、またしてもフョードルの召使たるグリゴーリイだった。そしてこのスメルジャコフフョードルの第二の召使となり、料理の腕がよかったのでコックとして使われることになった。


さて、物語は彼らのこうした人物紹介のあと、この四人が始めて一同に顔を合わせるところから始まります。それも、遺産や財産上の勘定をめぐる長兄ドミートリイと父フョードルとの不和がどうしようもないところまできていたのを、家族会議で話し合うことになったためです。しかしながら話し合いは、最初からわかっていた通り話し合いにすらならず決裂に終わります。しかもそこから明らかになっていくのは、父フョードルと長兄ドミートリイが金銭だけでなく同じ女性(グルーシェニカ)を奪い合っているということ、さらにドミートリイにはその女性とは別に許婚がいるが、その許婚(カテリーナ)を次兄イワンが愛しているということ。三男アリョーシャはその愛憎のただ中にいて、差し迫る悲劇を予感しながら奔走し、私生児スメルジャコフは彼ら三兄弟の言動を冷ややかな目で眺めながら物語全体に影を落とします。そして物語の悲劇は、父フョードルが殺害され、その犯人として長兄ドミートリイが逮捕される事件へと収束していきます。
新潮文庫版では、上巻でおこるべき悲劇の下地が提示され、中巻にてその悲劇はついに起こり、下巻ではその悲劇を全身に浴びた彼らが映し出されています。


ひとりの人間が殺されその事件が一応の解決をみるまでのこの作品の分量たるや、およそ1900項。おそるべき量です。しかも、これをわたしは特に強調して述べたいと思うのですが、余分な箇所は一切ないと感じます。作中では時間的にも物理的にも、話が前後したり移動したりすることがままあるので、読んでいる最中にはつながりが見えないことも多々ありますが、いやはや、あとで自分の愚かさを思い知らされるだけです。誰かの言動はのちの誰かの行動を促していて、誰かの感情はのちの誰かの計画に当てはめられていて、誰かのささいな行動はのちのしかるべき時点で必ず何かの意味をもたらします。先走って言ってしまうなら、わたしはこの物語のこの点に、何よりも大きな感動を覚えました。伏線という言葉ではもはや言い表せないこうした様々な、緻密なつながりが、どれほど物語に躍動感を与えていることか。感無量です。初めて読んだとき、ともかくも上巻が退屈でとてもじゃないけれど最後まで読む気のしなかったわたしですが(実際にはわけのわからないままに最後まで目を通すということしかできませんでした)、今は上巻こそ、書かれてあることのすべてを頭に叩きこむために100回でも読んでみたいと思います。


カラマーゾフの兄弟』はとくに、イワンアリョーシャに語って聞かせる「大審問官」(イワン自作の叙事詩)が有名で、「大審問官」こそが作品の核と認められているようです。そうと聞いては、なんとしても「大審問官」をこそ理解し楽しみたいと前向きな読者であるわたしは思うわけですが、悲しいかな、わたしにはまだ「大審問官」を一番に楽しめるような器はなく、大いに興味をそそられはするものの、深い理解は得られなかったというのが正直なところです。そういうわけで、わたしのこれから書こうとしている感想はおよそこの作品には相応しくないものになりそうですが、しかし、それはそれでしかたのないことです。


わたしはこの作品のミステリー性に大いに引き寄せられました。だからといってこの作品のジャンルが「ミステリー」だとは思わないけれど、でも、フョードルを殺した犯人は誰かということについては、ミステリー作品を読むときのような緊張感があり、そしてそれは、かなり高度な緊張感でもありました。特に最後の裁判のシーン。わたしはここにきて、本当にこの作品を読んでよかったと思ったし、ドストエフスキーという人の筆力と頭脳の明晰さに心底驚いたし、この裁判でドミートリイの弁護を担当した弁護士のフェチュコーウィチを紛れもなくかっこいいと思いました。検事イッポリートと弁護士フェチュコーウィチの論告の掛け合いは、わたしが今までに見たり聞いたりしたあらゆる(物語も現実世界も含めて)議論の中で最高の賞賛に値します。すばらしいと思いました。フェチュコーウィチのすべての穴を塞いでしまうような完璧ともいえる論理展開もさることながら、その論理を完璧にするべくして用意されたイッポリートの完璧な穴。わかってもらえるでしょうか。相手の穴を見つけることよりも、相手に見つけてもらえるようにうまく隠された穴を作ることのほうが難しいと思うわけですが、イッポリートの論告がまさにそれに当たるのです。彼はドミートリイを犯人だと信じて疑っていないし、この裁判で完全な勝利を得ようとして、ドミートリイが犯人であることを指し示し得る証拠をすべて、陪審員の前にずらりと並べ揃えます。被告がどんな人間であり、日頃からどのような言動をとってきたかなど、得られた証言のすべてを元に提示し、ときには情に訴え、感動的な場面さえ作り出してみせます。読者であるわたしは、どこか言いくるめられている感覚はあるにしても、たしかに間違ってはいないと思います。そして、当然その「どこか言いくるめられている感覚」が「うまく隠された穴」なわけですが、その穴をずばりと指摘し、光の下に高々と掲げるのが他ならぬフェチュコーウィチなのです。彼の弁論を読み進めているときの爽快感は、なかなか経験できるものではありません。さらに付け加えて言うなら、イッポリートにしてもフェチュコーウィチにしても、その論告のセリフだけがわたしを驚嘆させたのではありません。不思議なことに彼らが発言している様子が、つまり身振りや手振り、表情までもがよく見えるのです。実際にはそんなことまで細かく記述されているわけではないから「見える」というのは正確ではなく「想像できる」のほうが正しいのかもしれませんが、いやいや、そうは言っても「見える」のです。ふたりのプライドと信念とを賭けた熱き戦いです。1900頁におよぶ作品中で印象的なシーンはと聞かれたら、わたしはまずこの裁判の場面『誤審』をはずすことはできません。しかしこの裁判のシーンが物語の中でこれほどまでに生きてくるのは、そこに至るまでの物語が細部まで丁寧に描きこまれているからであることもまた事実です。


作品は全部で「十二編+エピローグ」から構成されていますが、第十二編『誤審』の他にも印象的なシーンは山ほどあります。たくさんあるので「あと三編」と制限して選んでみることにします。うーん。難しい。三つにしたことをもはや後悔していますが、きりがないので、やはり三つ。(といっても一編はいくつかの章から成っているので、その中でそれぞれひとつの章を選ぼうと思います。)



第四編『病的な興奮』(「7.すがすがしい大気のなかでも」)
「すがすがしい大気のなかでも」は三男アリョーシャが二等大尉スネギリョフにお金を渡そうとするシーンです。
数日前、ある飲み屋で長兄ドミートリイがこのスネギリョフにひどく腹を立て、彼の顎ひげをつかんで、彼の息子が泣き叫んで赦しを請うのも聞かず、衆人環視の中を引きずり回しました。アリョーシャドミートリイの婚約者であるカテリーナから、このスネギリョフへお見舞の二百ルーブルを預かり、渡すように頼まれたのです。カテリーナは自分よりもアリョーシャが行ったほうが<受け取るように説得できる>と思ったのです。
仕事をクビになり、妻は気が狂っているらしく、しかも病気の子供を抱えているスネギリョフはおそろしい貧困に落ち込んでいます。アリョーシャが持ってきた二百ルーブルは当然喉から手が出るほど欲しい。しかし、アリョーシャは他でもない、自分を息子の前で引きずり回した男の弟です。そしてそのお金をアリョーシャに託したのは、やはり彼を息子の前で引きずり回した男の婚約者です。しかし目の前にあるのは二百ルーブルという見たこともない大金です。貧困のどん底にいるスネギリョフが手にしたものは何だったのか。このあとの第五編に続く話も含めてとても良いシーンだと思います。


第五編『プロとコントラ』(「5.大審問官」)
先ほど深い理解は得られなかったと述べた「大審問官」ですが、そうは言ってもやはり、大いに惹きつけられる章です。この章では人間の自由についての問題が提示されているのですが、どうしても理解しきれていないと感じる一方で、その問題はすごくよくわかるという気もするのです。
イワンアリョーシャに語った自作の叙事詩『大審問官』は35頁にわたりますが、それについて何か自分の意見らしきことは言えそうもないので、わたしが最も心惹かれた部分を引用するにとどめます。以下はイワン叙事詩の登場人物である<大審問官>が<キリスト>に対して言うセリフです。

人間にとって良心の自由ほど魅力的なものはないけれど、同時にこれほど苦痛なものもない。ところが、人間の良心を永久に安らかにしてやるための確固たる基盤の代りに、お前(キリストのこと)は異常なもの、疑わしいもの、曖昧なものばかりを選び、人間の手に負えぬものばかりを与えたため、お前の行為はまるきり人間を愛していない行為のようになってしまったのだ。しかも、それをしたのがだれかと言えば、人間のために自分の生命を捧げに来た男なのだからな! 人間の自由を支配すべきところなのに、お前はかえってそれを増やしてやり、人間の心の王国に自由の苦痛という重荷を永久に背負わせてしまったのだ。お前に惹かれ、魅せられた人間が自由にあとにつづくよう、お前は人間の自由な愛を望んだ。昔からの確固たる掟に代って、人間はそれ以来、自分の前にお前の姿を指針と仰ぐだけで、何が善であり何が悪であるかを、自由な心でみずから決めなければならなくなったのだ。だが、選択の自由などという恐ろしい重荷に押しつぶされたなら、人間はお前の姿もお前の真理も、ついにはしりぞけ、反駁するようにさえなってしまうことを、お前は考えてみなかったのか? 最後に彼らは、真理はお前の内にはないと叫びだすだろう。なぜなら、彼らはあれほど多くの苦労と苦しみと解決しえぬ難題を残すことによって、お前がやってのけた以上に、人間を混乱と苦しみの中に放りだすことなぞ、とても不可能だからだ。(上巻641−642項)

第三編『好色な男たち』(1.「召使部屋で」)
物語の中にはたくさんの衝撃的な、驚くくらい「鮮やかなワンシーン」が出てきますが、中でもわたしの記憶に残ったのが、私生児スメルジャコフ誕生のシーンです。人物紹介のところでも少し触れたように、作中でスメルジャコフフョードルの第四子であることがほのめかされていますが、その誕生シーンは実に印象的です。経過はこうです。
フョードルの忠僕グリゴーリイとその妻の間には赤ん坊がひとり生まれますが、悲しくも二週間後に病気で死んでしまいます。その赤ん坊を葬った日の夜、寝床でグリゴーリイ夫妻は新生児の泣き声に似た声を聞きつけます。声のするほうへ行ってみると、庭の木戸の近くにある風呂場で、哀れな孤児リザヴェータがたった今赤ん坊を生み落としたところだったのです。この場面の記憶に残る強い印象が、のちの、ドミートリイフョードルの寝室に忍んでくる場面でまた思い起こされることになります。そして、このようにして生まれたスメルジャコフが、カラマーゾフ家の愛憎劇により一層の厚みを与え、悲劇への予感を色濃くします。その意味においてもこのシーンはとても重要だと感じます。



作品を通してまだまだ思ったこと、考えたいことはたくさんありますが、いま感想文として書けるのはこの程度でしょうか。
わたしがこの感想文を書くのを楽しみにしていたのは、ひとつは、この作品を読んだ人とこの作品についていくらかでも感想を交換してみたいと強く思ったこと、またひとつは、まだこの作品を読んだことがない人に少しでも魅力を伝えてこの作品を読んでみたいと思ってもらえたらいいなということ、そしてもうひとつは、そのようにしてこの作品について感想を言い合える人がひとりでも多くなったら楽しいだろうなと思ったことにあります。誰かと何時間でも尽きぬ意見交換や議論をできる作品というのはそれほど多くはありません。この感想文が未熟であることは承知していますが、ほんの少しでもどなたかの読書の刺激になれることを願うばかりです。


カラマーゾフの兄弟』これにてひとまず、読了です。