<伊坂幸太郎月間>『魔王』vol.1

u-book2009-05-12



実家で母の帰宅を待っている間に読み終わってしまいました。帰りの新幹線で読む本がなかったので、大好きな BUMP OF CHICKEN の『ロストマン』を延々一曲リピートしながら帰ってきました。


ただいま。


今月の<伊坂幸太郎月間>は、ある知り合いの男性が、現代作家で一番好きな作家に伊坂幸太郎を挙げたことがきっかけだったのですが、中でも一番好きな作品が『魔王』だとおっしゃっていました。「あれは、他の作品とちょっと違うんだよ」と。その「ちょっと」が気になっていました。


最後まで読んで、わたしはその「ちょっと」を彼と同じように読み取ることはありませんでした。『オーデュボンの祈り』と『ラッシュライフ』が「ちょっと」違うのと同じように、『魔王』も前の二つと「ちょっと」違うとは思うけれど、『魔王』だけが他の作品と趣を異にしているという感覚にはなりませんでした。ただ彼がこの作品を一番に挙げたことに興味があったので、物語に対する彼の視線を想像する楽しさがあったことが、わたしにとっての「ちょっと」の違いになりました。


『魔王』で彼が好きだったのはなんだろうか、ということを考えてみました。わたしは彼のことをほとんど何も知らないので、自分の想像の根拠となるような情報を持っているわけでもありません。勝手なイメージです。この物語では政治や政治家、国家や国民について考えるような記述が作品のひとつの軸となっていますが、彼なら誰の立場を支持するだろうかということを考えていました。野党政党の党首「犬養」だろうか。その彼に恐怖を抱く主人公の「安藤」だろうか。犬養を支持するバーの「マスター」だろうか。政治的な意見は持たなくても犬養の像に惹かれる一国民としての「島」だろうか。政治とは距離を置いて自分の大切なもののためにお金という力を貯め続ける「潤也」だろうか。


わたし自身は政治に対して自分のイデオロギーをまだ持っていないのですが、現実には「潤也」の立場に近いのかなと思います。政治について一生懸命に考えた時期もあったけれど、あまりに難しくて今はもうやめてしまいました。国家にとって何がいいかを考えて結論を出せる頭はわたしにはないし、その結論に対して責任をとる覚悟もないなと思います。国家に所属する一国民としてとるべき立場というものが、わたしにはよくわかりません。


わたしはただ、毎日を一生懸命に生きているに過ぎません。できるだけ楽しく、できるだけ悲しみから遠いところで、できるだけ誰かや何かを愛しながら生きようと思っているに過ぎません。みんなそれでいいじゃないかという気もします。そういうわけにはいかないみたいなのだけれど。
過ぎない、と言ったけれど、それはそれですごく大変だし、国家の問題を考えるのと同じように重要なことだと思うのです。国のシステムについてみんなで考えることと、今目の前にいる誰かのために何かをすることは、同じ気持ちが源になっているはずだし、そうであるべきではないかと思います。


「自分が生まれる前よりも自分が死んだ後の方が、世界がほんのちょっと良くなっている。」


それがわたしにとっての源です。そのために何ができるか、何をするべきなのかを考える。何についてもその源から発していれば、わたしはわたしの人生を明るく生きることができるのではないかと思っています。わたしの人生を明るく生きるために、わたしは、わたしが死んだ後の世界がほんのちょっとよくなっていることを常に願っていたいのです。わたしたちの世界は、たくさんの人の願いの上に成り立っているものだと思うから。


作中では「犬養」が好きな「宮沢賢治」の詩がいくつか引用されています。「雨ニモ負ケズ」しか知らない人間が、いきなりここで彼の詩を持ち出してくることは、いかにも知ったかぶりで恐縮ではありますが、とても良い詩なので誰かの心に響けば。


新たな詩人よ
嵐から雲から光から
新たな透明なエネルギーを得て
人と地球にとるべき形を暗示せよ。


新たな時代のマルクス
これらの盲目な衝動から動く世界を
素晴らしく美しい構成に変へよ


諸君はこの颯爽たる
諸君の未来圏から吹いて来る
透明な清潔な風を感じないのか(114-116項)


こういう願いの上に、わたしたちの世界があることを、わたしは忘れずにいたいと思います。