『煙か土か食い物』舞城王太郎


好きです。舞城王太郎もまた初めて読んだ作家ですが、好きです。ひさしぶりに素直に好きです。この文体、超イケてると思う。クレバー。下手な人がやったら最初から最後までむかついてしかたない種類の文章だろうに、文体は見事に確立されていましたね。物語のスピード感とともに駆け巡る言葉の知。文章の知。あーわくわく。


そう、まずはこの知的な文体への興奮を言いたかったのだけれど、別のことを書きます。


四郎君が、入院しているお母さんの手を握って泣くシーンがあります。

俺は涙が浮かんできそうな予感を抱く。危険な予感。俺は泣いてしまいそうだ。それはまずいと今の俺は思うが俺の中にいるチビの俺が泣きたくてたまらないようだ。好きに泣かせてやったらいくらか楽になるだろう。でも俺は二十八年間生き延びてきて苦痛を乗り越えるたびにそのスキルを上達させてきて涙を押さえ込む装置はほぼ完璧にビルドアップされていたから結局泣かない。でも俺は頬の痒みに気づく。俺は手を頬に当てて涙がつたってることに気づく。俺は泣いてないつもりで既に泣いてしまっている。俺が十五年以上かけて完璧にビルドアップしたはずの防止装置のどこかが故障してしまっている。防波堤が破れかけているのだ。


わたしは最悪なことに、涙をよく流します。昨日も泣いたし、おとといも泣いたし、その前も前の前も、わたしの目には涙がたまって、落ちたような気がします。最近はそうならない日のほうが少ないです。それは涙もろいということではたぶんなくて、精神のバランスが悪いのです。基本的に世の中が嫌いで、根本的に自分のことが嫌いで、嫌いなもの(社会)の中で、嫌いなもの(自分)を歩かせていることがしんどいのです。バランスなんてとれるはずがないだろうなと思います。涙はどうして流れるのかわからないけれど、バランスをとれない自分を憐れんでいるのかもしれません。


四郎君がいう「涙を押さえ込む装置」は、わたしの中にも存在しているのだろうなと思います。でもわたしは、涙を押さえ込む装置をビルドアップさせることができませんでした。もっと自分に正しい疑いをかけるなら、わたしはその装置をビルドアップすることができたのに、やらなかったのかもしれません。もしくは、完璧にビルドアップされているのに、使おうとしていないのかもしれません。涙が目にたまって落ちている間、わたしはこう思っています。わたしはこの涙を止めることができるかもしれないと。頭の中のあのスイッチを押したり、ずらしたり、ひっこ抜いたりすれば止まるのかもしれないと。それは一時的な応急処置でしかないけれど、都度、その応急処置を繰り返していればわたしは泣かなくて済むのだから、結果的にはその処置こそが適した治療法なのだと。


なのにそれをしないのは、たぶんわたしは、わたしを悲しくさせているものを見逃してしまいたくないからです。わたしは、わたしを悲しくさせているものの正体を知りたいし、そして戦いたいと思う。自分が泣きそうになったとき、涙を押さえ込む装置で感情と身体のつながりを切断してしまうのは、自分を悲しくさせているものに背を向けることのような気がします。もちろんそんなの人によって違うと思うけれど、わたし自身はそう感じます。ぷいって背を向けて立ち去ったほうがうんと楽だし、周りの人にも迷惑をかけずに済むのだけど。


周りの人に迷惑をかけても負け戦を繰り返しているわたしは、やっぱり最悪だなあと思います。