『ガーデン』近藤史恵

わたしは女性の書く文章が、基本的に苦手です。どうして苦手なのかと聞かれても、そのことについてあまり具体的に語ったことはないように思います。好き嫌いという抽象的な感情を言葉にするのが難しいということもあります。でもそれだけではなくて、わたしがそれに答えるのはわたし自身に支障を来たすからです。でも大切なことなのでいつか本気で答えてみようと思っていました。


本気にはなれないかもしれないけれど、いつもより少しがんばってみようと思います。


わたしは本が好きです。物語が好きです。でも中には嫌悪するものもあります。嫌悪という場合にもいろいろな種類があるけれど、そのうちのひとつは「女性が書いた女性が主人公」の物語の中でしか生まれません。その嫌悪感は男性が書いた物語の中で生まれたことはないのです。少なくとも経験的には。


「女性が書いた女性が主人公の物語」を読んでわたしの中に生まれる嫌悪感は、とても汚い感情です。不寛容で無慈悲です。主人公に対しても、作者に対しても、消えろ、と言いたい。


彼女たちは自分が特別だと思っています。特別になりたいと思っています。そしてその特別はプラス方向ではなくて、マイナス方向に向かっています。他人よりも頭ひとつ抜きん出て、不幸になりたいのです。不幸だと思われたいのです。他人よりも多く傷があり、他人には得られることのない傷があると思っています。と同時に、その傷を何よりも大事にしています。まるでそれが自分のアイデンティティであるかのように。
他人に理解してもらえない痛みで自分を傷つけ、自分で傷を増やし、より特別になろうとする。マイナス方向に。
彼女たちにとって世界で一番美しいのは、自分の胸にあるその傷です。


むかついてしかたないのは、きっと、自分が彼女たちと一緒であることを否定できないからです。


男の子は女の子を救う物語を書くけれど、女の子がするのはいつも、その物語に花を添えることだけです。物語が困難であればあるほどいいことを知っている女の子は、できるだけ救われない女の子になろうとします。だからできるだけ自分の傷を増やします。でも、女の子が傷を増やすことに物語なんてありません。なぜなら、救い甲斐のある女の子がそこに存在することで物語は自然に生まれることを、女の子は知っているからです。女の子が傷を増やすのはいつもとても現実的です。


現実的な小説なんて、わたしは読んでもむかつくだけです。


『ガーデン』の主人公のひとりは「燃える火に夜と書いて火夜(カヤ)」という名前です。女性作家は女性を主人公にして、こうして傷を増やします。
わたしは、不幸になってほしいという願いをこめてこの名前をつけることは理解できても、不幸である設定の人物にこの名前をつけることには腹が立ちます。