『坑夫』夏目漱石


家庭内読書会「古典的名作を読もう」企画、第四回課題本。もちろんわたしが選びました。すごく読みたかったんです。


今この目の前にある光景を、今ここに沸き起こってきた感情を、言葉で伝えるにはどうしたらいいだろうと思ったとき、言葉では到底無理だという諦めをひっくり返してくれるのは、ああやっぱり漱石の文章なのだと、読むたびに思うことをまた思ったという喜びでいっぱいです。


言葉は事実を、物質を、風景を、感情を、感触を、なにひとつ完全には再現できない不完全なものです。どんなにたくさんの言葉を積み重ねたとしても、たとえばペンひとつ、完全には表現できない不完全さを言葉はいつも持っています。それでもわたしたちはいつも言葉と現実の距離を近づけようとします。それは決してゼロにはならないとわかっていながら、そうせずにはいられない。そしてあえなく失敗するのです。その繰り返しをずっとしている。


でも漱石の文章から、わたしは、言葉が現実に近づこうとしている様をあまり感じることがありません。現実がそこにあって、それをどうにかこうにか言葉にしようという切実さをあまり感じません。漱石の言葉はいつも、わたしの目には、もはや現実のほうから発せられているようにさえ見えます。


言葉には常に不完全さがあるといいました。その不完全さとはつまるところ「言葉の存在しないスペースがある」ということです。色でたとえるとわかりやすいでしょうか。青と水色があります。青と水色の間は白の配分でさまざまな色になり得ます。でもその「さまざま」にそれぞれ固有の名前はついていないはずです。またつけることはほとんど不可能です。名前をつけられない(言葉を与えられない)そのスペースが言葉の不完全さです。


言葉がわたしにとって魅力的なのは、青と水色の中間の色に名前を与えたとき、名前を与えれば与えるほど、その間に色の数が増えれば増えるほど、スペースの数も増えるというところにあります。定規のメモリみたいなものです。30センチの定規に「0」と「10」と「20」と「30」の箇所にだけメモリがあったら、スペースは3つしかないけれど、1センチごとにメモリがあったらスペースは30になる。


言葉は増えれば増えるほど現実に近づいていけるのかもしれません。でもそのかわりにスペースが増えて言えない部分も生まれます。その言えない部分が「想像力」なのではないかとわたしは思うようになりました。言葉を知れば知るほど、たぶん、想像ができるのです。「好き」と「嫌い」しか知らなかったのが、その中間にある感情Aと感情Bの名前を知ることで、今度は感情Aと感情Bの間の感情Cを想像することができる、そう思うようになりました。それが言葉の魅力のひとつだと思うようになりました。


この本を読んでいる間「いい顔してるなぁ」って言われたのは、たぶんわたしが漱石の文章から溢れ出るスペースに魅了されていたからだろうと思います。