『シャーロック・ホームズの冒険』コナン・ドイル 訳:延原謙


シャーロック・ホームズのシリーズを全部読んで、わたしの好きな作品ランキングとその理由を書くことを、いつかの楽しみにして繰り返し読んでいます。


『シャーロック・ホームズの冒険』は全10作品。以下、いつかの楽しみのための参考として。



ボヘミアの醜聞

かのアイリーン・アドラーの登場する一編として重要な作品。
事件自体は、身分ある男性(ボヘミア国王)が、過去の過ち(アイリーンとの関係)を隠すために、ふたりで一緒に映っている写真を彼女から取り戻してほしいとホームズのところにやってくるという、多少みっともなくはあるものの、よくよくありそうな平凡な依頼から始まります。でも平凡でみっともないところに端を発した事件は、華麗でウィットに富み、リズムに乗って、まるで部屋でひとり奏でられるホームズのヴァイオリンに、フルートの音が風に乗って響いてきたかような気品ある一編に仕上がっています。調和して、翻弄して、独奏したかと思ったら譲って、最後はフェルマータの余韻。
ちなみに余談ですが、わたしは身の回りの持ち物に名前をつける習慣があって、自分の腕時計には「アイリーン」と名付けています。そしていつか素敵な男性に腕時計をプレゼントするときには、その時計には「ホームズ」と名付けることに決めています。


赤髪組合

赤い髪を持った人の組合の話かと思ったら、なんとまあ、銀行強盗の話だったという一編。人の家の地下から他の家に向って数ヶ月もの間毎日数時間かけてトンネルを掘るという滑稽さ。欲深さ。大胆さ!!鍵を開けたり、窓を割ったり、屋根に上ったりしなくても、家と家は、土を掘ってトンネルを作れば繋がるんだ、と、しないでもいい感心をしました。

L'homme c'ast rien - l'oeuvre c'est tout (人はむなしく、業績こそすべてだ)


花婿失踪事件

「必ずある成果が得られるものと思いますから、すっかり私におまかせなさい。そしてあなたはもう何も考えないことです。何よりもまず、ホズマー・エンゼルさんのことをお忘れなさい。本人が消え去ったのですから、あの人の記憶をいっさいあなたの胸の底から追いだしてしまうのです」


メアリー・サザーランドがホームズのこの忠告を一日でもはやく、聞き入れてくれることを願うしかありません。


ボスコム谷の惨劇

わたしには犯人の自業自得だという感が拭いきれませんが、ホームズは「運命はなぜこうも弱い人間に悪戯するのだろう?」と言っているので、わたしとは意見がくいちがうようです。ただ

そしてアリスとジェームスの二人は、その過去を覆う暗い陰はまったく知らず、やがて楽しい共同の生活にはいろうとしているようである。


であるならば、ふたりの罪人の罪も償われるのではないかという気がします。


オレンジの種五つ

K・K・K(キュー・クラックス・クラン)の名前はわたしにとってとても恐ろしいものとして胸に刻まれています。なぜならポール・オースター『ミスター・ヴァーティゴ』での印象が強烈だからです。あんなにひどいシーンをわたしは他の小説で経験した記憶がありません。ここでも出てくるなんて。忌まわしいものとして遠ざけたい気持ちが膨らむばかりです。

「僕は誇りを傷つけられたよ」しばらくたって彼がいった。「むろん、つまらない感情にはちがいないが、僕は自尊心を傷つけられたよ。こうなったら僕には事件じゃなくて、個人的な問題だ。命のあるかぎり必ずこのギャングを押えてやる。せっかく僕を頼ってきたものを、むざむざと死なすために帰してやるなんて!」


唇の捩れた男

毎朝スーツを着て出かけている夫が、実は乞食をしてお金を稼いでいると知ったら、さてわたしだったらどうだろうと考えてみたけれど。なんだかいやな気持ちになってきたので、考えないことにしたいと思います。
ブラッドストリート警部に「それにしてもいったいどうしてこの解決を得られたのか、それがうかがいたいものですね」と言われたホームズはこう答えます。

五つのクッションを集めてそのうえにすわり、刻みタバコを一オンス煙にして、やっと解決に到着したんですよ。


こういうところも本当によくできていると思います。


青いガーネット

クリスマスの朝にひょんなことから鵞鳥を拾った男が、その鳥のえぶくろから世間で盗まれたと騒動になっていた青いガーネットを見つけるというお話。ホームズは事件の真相を突き止め、犯人をその目の前に追いつめておいて、逃がしてしまいます。

「要するに何だな」とホームズは陶製のパイプに手をのばしながらいった。「何も警察の欠陥を補うのを僕は頼まれているわけじゃないからね。ホーナー(無実)が罪になりそうだとでもいうなら話は別だが、ライダー(真犯人)のやつもこれ以上ホーナーを落しいれようとはしないだろうから、事件はこれで自然消滅になるだろう。ただ僕としては重罪犯人を勝手に減刑にしてやったことにはなるが、その代りこれで一つの魂が救われると思う。あの男は二度と悪いことはするまい。すっかり懲りて、震えあがっている。もしここで刑務所へ送ってやれば、あいつは常習犯に転換してしまうだろう。(略)」

ホームズの減刑への賛否はともかく、そういうことは現実にあるのでしょう。ひとつの罪が許されなかったばかりに未来での罪が増えてしまうということは、きっとあるのだと思います。この一編のように、その逆もまたあるのでしょう。誰がどっちの運命にあたるかというのは、いったいどうやって決まるんだろうね。


まだらの紐

おどろおどろしい事件です。事件も怖ろしいですが、たとえ事件がなくても、ホームズに救いを求めに来た女性へレン・ストーナーの置かれた状況にわたしはすでに恐怖できます。継父から酷い扱いを受けながら、しかも姉が亡くなったのちはその継父と二人で暮らしていて、その上には継父がインドから取り寄せた豹と狒々が家の中で自由に放し飼いにされており、さらに庭にはジプシーが住み着いているのです。もちろん事件の犯人もこの常軌を逸した継父ロイロットなのですが。

「(略)したがって僕としてはロイロットの死に間接の責任はあるわけだが、さればといってたいして良心に負担も感じないがね」


そう言うホームズがわたし、好きです。


花嫁失踪事件

恋人が死んでしまったものと思って別の男性と結婚する決心をしたところ、その恋人が生きて目の前に現れたために、セントサイモン卿は結婚式の途中で花嫁は逃げられてしまいます。被害にあったセントサイモン卿のほうが、ややもすると悪人のように描かれている感がありますが、いやいや、わたしは卿の最後のセリフは毅然としていて立派なように思います。


椈屋敷

背格好の似た女性が、娘の身代わりをさせられる話。
身代わりに選ばれた娘ヴァイオレット・ハンターがホームズのところに相談にきたとき、彼のハンター嬢に対する態度や意見は、ずいぶんそっけなく冷淡なように、少なくともわたしの目には映りました。だから事件解決後、ワトスン君がこう言及しているのを見て、わたしは修行不足を感じました。

ヴァイオレット・ハンター嬢に関しては、私はそれを知って失望を感じたのであるが、ホームズはひとたび彼女が事件の中心でなくなると、それきり何の関心も見せなかった。いまはバーミンガム郊外のウォルソールで私立学校長になっているが、さだめし相当の成功をおさめていることだろう。


わたしは最初っからなんの関心もないように見えたのですけど。男性の態度にもいろいろ複雑な思いが含まれているようです。



次にホームズを読むときは、机の上にロンドンの地図を広げて読みたいです。