『僧正殺人事件』S・S・ヴァン・ダイン 訳:日暮雅通


家庭内読書会「古典的名作を読もう」企画、第五回課題本。


山田正紀の『僧正の積木唄』を読んだときに、本家の『僧正殺人事件』も読みたいと思ったのをすっかりすっからかんに忘れていたのが、ここで課題図書に取り上げられて喜んだときにはもう、『僧正の積木唄』のほうもすっかりすっからかんに忘れているというもったいなさ。


『僧正殺人事件』の「解説」にも、『僧正の積木唄』の「解説」にも書かれているのは、ヴァン・ダインのミステリー設計が後世に計り知れない多大な影響を与えているということで、なるほど、たしかに今では目新しくもない「見立て殺人」というアイデアを最初に本格的に採用したのが本作品であるならば、当時の読者にとってはゾクゾクする体験だっただろうと思います。童謡に見立てて行われる連続殺人は、あたかも罪を知らない子供が歌を歌うようにして無邪気な刃を剥いたような恐ろしさを連想させます。事実『僧正殺人事件』では、強調してもし足りないというくらいに何度もその点が繰り返し言及されているのだから、作者が得意としたかったのも、おそらくはそのことなのでしょう。

あまりにも陰惨で、魂もひっくり返ってしまうほどに悲劇的で、筆舌に尽くしがたい恐怖の積み重ねであり、さらに、理不尽なまでの残虐性のうえにぞっとするようなユーモアが含まれた最終段階。何年か経た今になって、こうして机に向かって事件の記録をしたためながらも、これらのできごとは、荒唐無稽で邪悪で醜悪をきわめた悪夢だっただけなのだとしか思えないほどだ。


こうした言及が途中何度も出てくるのです。この事件がかつてないほどの怖ろしさを帯びていることを、犯人の残虐性がわれわれの想像の範囲を超えているのだということを、語り手であるヴァン・ダインは繰り返し言います。ということは、作者はこの作品に読者の肌を凍りつかせるほどの恐怖の用意があると、自信を持っていたのだろうと思います。そしてわたしはその自信に期待を寄せたし、特に犯人の心内でくすぶっている残虐性の正体が暴かれるのを待ち望んでいました。


でもなんのことはない、犯人の残虐性の正体は幼稚でしかありませんでした。幼稚ではないところにもっていきたいと思うからこそ「見立て殺人」という装置を考え出し、数学やらなんやらの薀蓄もふんだんに盛り込まれるのだけれど、犯人の心模様はわたしにはどうしたって幼稚にしか見えませんでした。そしてその幼稚さこそが最大の残虐性なのだと言いたいような、強い批判精神も感じ取ることはできませんでした。


『僧正の積木唄』のほうがおもしろかったです。覚えてないんだけど。