『ガープの世界』ジョン・アーヴィング 訳:筒井正明


家庭内読書会「古典的名作を読もう」企画、第六回課題本。は、月をふたつ跨いでしまいました。3月の課題本です。


再読だったのですが、例によって例のごとく、前に読んだときよりも断然楽しく読みました。思うに、時代を経てなお名作として語り継がれる小説は、もし最初に読んだときにおもしろいと思えなくても、もう一度読んでみようかな、と思ったら、読むのがいいようです。結局のところ、そういう小説だけが後世に残っていくのでしょう。


しかしこの小説は「後世に残った」わけではなく、まだ現代の作品ですし、作者だって元気いっぱいかどうかは知らないけれど、存命中の作家です。それでも上のように書いたのは、単純にわたしがそう思ったからです。この小説は「名作」だと。


様々な点において、実にタフな小説でした。タフな文章を、タフな文体で、相当な分量書くことは、それだけでかなりタフな作業だと思うのですが、ここでは物語自体もタフです。それはプロットのひとつひとつがタフであるというだけでなく、作品の中で起きていることは、現実の身の回りの世界で起こることとほとんど何ひとつ一致しないのに、すべてが「起き得る」こととして、あるいはどこかで「起きていることとして」読めてしまうその「現実性」がタフなのです。


このタフさはいったいどこからくるのだろう、どうやって身につけたのだろうと考えたとき、それは作者自身がもともとレスリングの選手だったこと、そしてレスリングというスポーツから身についたものかどうかはわからないけれど、相手や敵(すなわち世界)と対峙したときの逞しい視線と関係しているのではないかとわたしは思いました。


作家と呼ばれるひとたちは、よくふたつのタイプに分類されるけれど(たとえば「長編向き」と「短編向き」、あるいは「多作」と「寡作」、あるいは柴田元幸さんは「書くことによって正気を保つと考える作家」と「書くことによって自己のなかの狂気に触れると考える作家」が存在するようだ、と書いているけれど)、もし作家を「世界をどちらかというと愛している作家」と「世界をどちらかというと憎んでいる作家」に分けるとしたら、ジョン・アーヴィングは前者じゃないかという気がします。まあ、だとしたらちょっとひねくれた愛情ではあるのだけれど。



世界を愛しているからこそのタフさが、この小説にはあるような気がします。