『堕落論』坂口安吾


家庭内読書会「古典的名作を読もう」企画、第七回課題本。前回よりひと月追いついて、こちらは4月の課題本です。わたしにとっては初の坂口安吾ではなかろうかと思います。


昔読んだCLAMPの漫画『東京BABYLON』の中に、桜の花がピンク色なのは下に死体が埋まっているからだ、というセリフがありました。たしか桜塚星史郎が昴流に言うのです。桜の花は本当は真っ白なのだと。わたしはその言説が好きで、ずっとあとになってから、友人にその話をしたら、それはたぶん坂口安吾からもらったんだろう、と言うので、わたしはびっくりしました。桜塚星史郎ならいかにも言いそうですけれど、むしろ自分が死体を埋めてほくそ笑んでそうなくらいですけれど、生きた現実の社会の中で、桜の花を見て、桜の木を見て、この下には死体が埋まっているという想像は、なんだか暗いし、ひねくれているし、あんまりお近づきになりたくない感じがします。けれど近づいてみたくなる美しさがひっそりと隠れているような気にさせられるところがまた迷惑です。桜塚星史郎もそんな人でしたね。


そういうわけで、わたしはずいぶん長いこと、坂口安吾といえば「桜の木」だけを連想してきました。


堕落論』は、そうして連想されていた坂口安吾像を、ひっくり返してくれるものではなく、どちらかというと裏付けてくれるものでした。現代においてならまだどうかわからないけれど、当時においてはたぶん「困った人」だったろうなと思われました。出る杭は打たれる、のまさに杭のような人だったろうな、と。打っても引っ込まなさそうですし。嫌いじゃないけれど、好きとも言いかねます。しかし好きとは言いかねるけれど、嫌いと断じて撥ね付けてしまうことは、躊躇われます。真理に背を向けてしまっているような臆病さを感じるからです。


安吾は言います。

日本人は、こりることを知らないのだ。地震国だから、地震は、天災だという。地震に倒れない建築をたてれば、すむことではないか。何が、天災であるか。こりることを知らず、それに対処する努力と工夫とを知らず、昔のままに、ほッたらかしておけば、天災は当然じゃないか。天皇制、亦、然り。これも、亦、天災であるか。あさまし、悲し。天災などとは、文化がない、という意味だ。進歩も、工夫も、向上も、努力も知らない、ということだ。日本人は勤勉だと云う。焼跡を直ちに片づけ、再び直ちに、地震につぶれて火事に燃える家をシシとして、うむことなく、建てる。そんなのは、蟻と同じ勤勉ではないか。人間は虫であっては、いけないのだ。虫の如くに勤勉などとは、何たる悲しいことであろうか。
蟻は、こりることを知らないかも知れないが、人間は、こりることを知り、再び愚をくりかえさぬ努力と工夫がなければならぬ。
安易にして便利な法を発案するのは悪いことではないが、工夫と努力によって簡易安易な法を見出すのではなく、無策の故に、又、努力と工夫がいらないために、安易簡便を利するのは、悪事である。無策とは、無責任ということで、その責任に堪えざることであり、無策の徒が、責任ある地位をけがすことは罪悪である。


それはそうなんだけれども、そんなこと言われても。。。と、どちらかというと蟻と同じ勤勉さを選んで生活しているわたしなどは、だんだんと叱られているような気持ちになってきて、胃のあたりがチクチクします。なんだかごめんなさい。