『第一阿房列車』内田百間

家庭内読書会「古典的名作を読もう」企画、第14回課題本。

なんだか嫌なので先に注釈しておきますが、著者名「内田百間」の「間」は、本当は門の中が「日」ではなくて「月」です。名前は正しく書かないと。ごめんね、ひゃっけんさん。


夏目漱石の『坑夫』に少し似たリズムかなぁと思っていたら、著者は漱石の弟子なのだそうです。なんてうらやましい。


用事のない列車の旅を綴った紀行文は、その文章だけでなく、その珍道中の珍妙さにも、ああ漱石っぽいな、と思わされることがありました。でも漱石っぽいなと思うたびに、でも漱石とは全然違うんだよな、と思う。わたしの道中はその繰り返しでした。なにが違うのかということを考えても、具体的なことはさっぱりわからないのだけれど。ただ、文章と文章とを比較して、ここがこう違うということはわからなくても、自分の異なった感想には気づくことができます。百間の『第一阿房列車』は楽しい文章で、楽しい旅だから、これを読むと自分も列車に乗って旅がしたくなる。一方、漱石の『坑夫』を読んだら、銅山を掘りたくはならないけれど、文章が書きたくなる。


漱石の日本語の文章に憧れて、漱石のような日本語の文章が書けるようになりたくて、さまざまな文章を読み続けてきて、自分の文章を書き続けてもきて、けれど憧れは憧れのまま、縮まる距離などまったくなく、それでもその憧れの場所は常に目指す場所としてあって、今も昔もずっと遠い。
知れば知るほど、理解すれば理解するほどに、たどり着くことはできないという確信は強くなるのに、たどりつきたいという気持ちも同じように強くなっていく。だから夢は、どんどん遠くなっていく。わたしの夢は、大人になればなるほど大きくなっていく。


ということを、幸せだと思うことにして、がむばる。


百間さんも漱石の文章が大好きだったのかな。