『葬送』平野啓一郎

19世紀の、おそらく現代に至るまでもっとも人々に愛され続けている音楽家フレデリック・ショパンと、その愛人であったジョルジュ・サンド、そしてショパンの友人であり19世紀を代表する画家でもあるウージェーヌ・ドラクロワ三者を中心とした二月革命下のパリの社交界を描いた長編。


たとえば『ガープの世界』を読んだときのように、たとえば『百年の孤独』を読んだときのように、たとえば『カラマーゾフの兄弟』を読んだときのように、この作品も難渋しながら読むことになるのかと思っていたのですが、そういうことはありませんでした。文庫で約1600頁の大作は、すらすらと、アクション映画を観るようにテンポ良く進んだわけではもちろんないのですが、途中で諦めたくなるようなこともありませんでした。内容も文体も重厚だけれど、理路整然としていて、とても礼儀正しい文章でした。こう言うのを聞いて著者が褒め言葉と受け取ってくれるかどうかはわからないけれど、わたしとしては、物語のおもしろさや、文章の美しさや、そこから得られる感動よりも何より、著者の教養の高さを感じ取る作品となりました。それは、この作品の中で語られる思想や哲学、あるいは収集された情報や作品の構造からもうかがい知ることができるけれど、でも何よりも、選ばれた言葉のひとつひとつがそれを明確に現していたように思います。隙がない国語力、とでもいえばいいでしょうか。わたしには、この作品から学べることがとてもたくさんあります。


ところで、わたしは3歳からピアノを習っていて、今でも好きで弾くのですが、おそらくピアノを習う生徒が誰でもそうであるように、わたしも一度はショパンに憧れました。大学受験のときにピアノをやめて、そしてまたピアノを習い始めたとき、どうしても弾きたかった曲がショパンの『幻想即興曲』だったことは、わたしのピアノ歴において大切な記録です。弾きたい曲がある、ということは、何よりも強く奏者を楽器と結びつけてくれるものだと思います。


しかしその後、わたしはだんだんと、あるいは突然だったかもしれませんが、ショパンからは離れていって、今のわたしはショパン(の音楽)がそんなに好きではありません。それはこの作品を読んでも変わるところがありませんでした。より好きにもならなかったし、余計に嫌いになったりもしませんでした。作品の中に描かれたショパン像は、彼の音楽からうかがい得る人柄を逸脱することがなかったし、その描かれた人柄だけをとってみても、わたしは好きとも嫌いとも思いませんでした。


一方でウージェーヌ・ドラクロワについては、わたしはこの画家がもともと好きではあるのだけど、作品を読んで、より好きになりました。だから読み終わったときは1600頁も読んできたはずなのに、物足りなかったです。ショパンは最期まで描かれるけれど、ドラクロワはこれからまた大作を手掛けようとするところで終わってしまいます。わたしはドラクロワショパンの死をどのように抱えて、あるいは心の範囲外にして、その後の画家としての人生を歩んでいったのかを、とても読みたかったです。そう欲求させてくれる魅力が、作品中のドラクロワにはありました。


ああでも、ピアノを弾く人間としてこれだけは言っておきたいのですが、この作品の中に「ショパンはピアノという楽器の良さを本当によくわかった音楽家」だと書かれた一節があります。特に強調されることもなく、当然のようにさらりと書いてあるのですが、もしわたしがショパンについて何か書く(言う)としたら、そのことだけをただひたすらに訴えたいと思えるくらい、このことは確固たる事実です。ピアノの良さを最大に生かせる音楽を作ったのは、ベートーヴェンでもモーツァルトでも他の誰でもなく、ショパンだったとわたしも思っています。わたしはショパンがたいして好きではないけれど、ピアノは、ショパンが大好きだったと思う。


それにしても、これだけの文章がこれだけの量で望めるなら、是非ともあと50年ほど遡ってもらって、ベートーヴェンで書いてほしかった。。。