『はてしない物語』ミヒャエル・エンデ 訳:上田真而子/佐藤真理子


家庭内読書会「古典的名作を読もう」企画、第15回課題本。


繰り返し2回続けて読みました。


小学生と中学生の頃に映画「ネバーエンディングストーリー」を観ていますが、わたしはあまり学びのない子供で、自分の見ている映画に「原作」というものがあることも知らず、それがミヒャエル・エンデという作家の作品であることも知らず、ずーーーっと知らないまま、知ったのは大学生のときでした。あの映画に原作があるのか、とびっくりしたものです。原作を読んで映像への変換を想像することはできるかもしれませんが、あの映画を観て、文章への変換を想像することはけっこう大変です。少なくともわたしは。


2回読んだのは、1回目に読み終わったときに、満足できなかったからです。なんだって主人公のバスチアンはファンタージェンに行って現実の世界での記憶を失うような目にあわなくちゃいけないんだろう、とか、そもそもファンタージェンって結局なんだったんだろう、とか、この物語が言おうとしていることが、わかるようでいて、いまいちよくわからないという不満。でもそれも作品に対しての不満というよりは、そういう自分の感想に対して不満を持ったというほうが当たっているように思います。


けれど、なんでなのかわからない、とか、どうしてなのか納得できない、と思ったことについては、2回読んだら概ね解決されました。ああ、なるほど。そういうことか、と。にもかかわらず、やはり釈然としない感じは残ってしまって。それで気がついたことは、わたしの記憶にある映画の映像が、この物語の楽しみを邪魔しているのだということです。


1回目のときから、たしかにその映像は邪魔くさかったのです。幸いの竜フッフールは、わたしの頭の中では犬だし。犬、ですよね?映画観た人、賛成してください。


物語を読むとき、わたしは頭の中で何かしらの絵を思い浮かべています。それは無意識的にしていることで、しかも読者の100パーセントが、そうして本を読むと思っていました。でもだいぶ前に、読書をしているときに絵や映像は頭に浮かばないという友人の話を聞いてから、自分が読書をしているときに頭の中に絵があると「わたしはやっぱり絵を思い浮かべているな」と所々で意識するようになりました。そして頭の中に自然に浮かんでいるその絵は、映像の記憶よりは当然曖昧で、不確かです。でも「不完全」であるということは、必ずしも物語の楽しみを減少させることにはなりません。そして、完全であることは物語を楽しむのに必ずしも必要なことではありません。


だから映画の映像が邪魔だというのは、たぶん、わたしの思い浮かべる不完全な絵と、映画のはっきりとした絵とがひとつの額を共有してしまうからなのだと思います。記憶と想像を組み合わせてひとつの絵を描くのは、実は大変難しいことのように思います。しかし理由がどうであれ、読書で自分の想像力を広げられないというのは、結局作者エンデが憂えた未来の人間の状況を、わたし自身が証明してしまっているようで癪に障ります。エンデの憂慮した未来に自分は加担する側ではなく、食い止める側にいたいじゃないですか。わたしもファンタージェンに行ける側の人間だって言いたいじゃないですか。しかし、奮闘むなしく。フッフールは最後まで犬でした。。。


この物語のファンタージェンに行けなかったことは残念だけれど、でもわたしにはやっぱり別のファンタージェンがあると思います。それをバスチアンよりも、豊かなファンタージェンにしたい。そして、戻ってきたい。


でも、それは別の物語、いつかまた、別のときに書きます。


そうして「はてしない物語」が続くのだと、それがわかればいいかな、エンデ。