『死の家の記録』ドストエフスキー 訳:工藤精一郎

死の家の記録 (新潮文庫)

死の家の記録 (新潮文庫)

著者が体験した獄中生活の記録。すぐれた作家にはすぐれた観察眼があるものだと思うけれど、その証左のような作品。口を結んで対象をじっと見つめれば、これだけのことが誰にでもわかる、というものではない。
死の家の記録」というタイトルはまさにここが「死の家」であることを言い当てているけれど、同時に「生」があることも含んでいると思うことができます。
読む前は、作品の中でたくさんの人間が死ぬことを想像したけれど、読み終えたあとのわたしは、たくさんの人の生きた姿だけを覚えています。


積まれた本(1)

読み終わった本は、しまわずにいったん机の上に置いておいて、感想文を書いたら棚に戻す。
ことにしているのですが、わたしはいつまで経っても感想文を書かない。だから机の上にどんどん本は積み上げられて、二列になってなお一冊も減らず、もういいかげん机の上をすっきりさせたい衝動に駆られた、まさにこの時に、ずらっとコメントで済ませてしまうことにします。

 『ラーマーヤナ』インド古典物語 河田清史


半年前に読んで、内容もなにももう覚えていないので、読んだという記録だけ。


ラーマーヤナ―インド古典物語 (上) (レグルス文庫 (1))

ラーマーヤナ―インド古典物語 (上) (レグルス文庫 (1))

ラーマーヤナ―インド古典物語 (下) (レグルス文庫 (2))

ラーマーヤナ―インド古典物語 (下) (レグルス文庫 (2))


古典物語だといわれてしまうと、中身も相当に難しいものをわたしは想像してしまうのですが、「少年少女にしたしみやすく読みやすいように、詩を散文にして、童話風な物語りとしたのが、この本」と著者がおっしゃるとおり、本書は大変読みやすかったです。読みやすくしなかった場合にはいったいどのような作品なのかということはすこし気になるけれど、本書で十分と思うことにします。


インドに行くことがあったら、行く前には必ずもう一度読みます。行かなくても、また読むこともあるでしょう。


 『怒りの葡萄』ジョン・スタインベック 訳:黒原敏行

本当にすごくいい小説でした。

怒りの葡萄〔新訳版〕(上) (ハヤカワepi文庫)

怒りの葡萄〔新訳版〕(上) (ハヤカワepi文庫)

怒りの葡萄〔新訳版〕(下) (ハヤカワepi文庫)

怒りの葡萄〔新訳版〕(下) (ハヤカワepi文庫)


1930年代の大恐慌時代のアメリカを舞台に、土地を追われた小作人一家13人が仕事を求めてトラックひとつで旅をします。西へ、西へ。


現実と貧困が自分たちを押しつぶそうとしているとき、土地や家や仲間や家族や食べ物だけでなく、わずかな希望をも根こそぎ奪い取ろうとしているとき、やはりそれらを守ることはできず失ってしまうもののほうが多いけれど、それでもわずかに残っているものの、どうにか譲り渡さずにいるものの気高さが胸に迫ります。


わたしたちの頭上には空があり、わたしたちの足元には大地がある。わたしたちはその間で生まれ、育ち、最後は土に還る。シャボン玉のように空中でプワンと生まれてパチンと消えるのではないし、星のように空の向こうでいつもキラキラ輝いているのでもない。だからこそおそらく人間は欲と傲慢さを身につけたけれど、パチンと消えるのではないから歴史を紡ぐことのでき、手の届かないところで光り続けるのではないから強さと弱さを持つことになった。


空と大地の間で生きるということは、それらを思う存分発揮することだと、この一家の物語を読んだら、そう思いました。


本当にいい小説でした。読むのと読まないのとでは、人生違っただろうなと思います。感佩。


 『地下室の手記』ドストエフスキー 訳:江川卓


地下室の手記 (新潮文庫)

地下室の手記 (新潮文庫)


以前は八等官の役人だったけれど、親戚の遺言で6千ルーブリが手に入ったのを機に、さっさと辞表を出して引き篭もって、現在は40歳になっている男が、地下室で綴った手記。


しちめんどくさいことがいっぱい書いてあって、わかりそうでいまいちよくわからなくて、ややこやしくて、でもその中に、びっくりするほどとてもよく理解できることがある。その「とてもよく理解できる」ときの段違いの動揺が忘れられない。だから、しちめんどくても、むつかしくても、ややこやしくても、でもやっぱりもっかい読もうと思う。そういう小説です。ドストエフスキーの作品はどれもそうですけれどね。


この作品を読んで思ったことを、どうやって言ったらいいのか。いや、そもそも、わたしが感じたことはいったいなんなのか。この作品を通してわたしなりに捕らえることのできた解答がたしかにここにあるのに、この解答の姿かたちをどう説明したらいいのかがわからない、とムヤムヤしていましたが、訳者の解説を読んだら明瞭になりました。それ!まさにそれ!と。「それ」であるからこそ、また読みたいのであって、もし「それ」でなければ、読んだってしかたない。


というわけで、わたしが言葉にできなかった感想は、解説によって明瞭にされ、しかも全体的にうるとらグレードアップな文章で提示されておりましたので、わたしは自分の感想文を書く気を失いました。アーメン。


ちなみに「それ」が何であるかは、これから読む人のためのお楽しみです。言いたいけど。


 『スティル・ライフ』池澤夏樹

再読です。

スティル・ライフ (中公文庫)

スティル・ライフ (中公文庫)

冒頭が印象的な小説です。そしてたぶん、誰が読んだって冒頭が印象的な小説なのではないでしょうか。この作品を好きな読者なら、みんなそう思いますよね、きっと。
表題作の「スティル・ライフ」は80頁ほどの小さな短編で、センセーショナルな内容を含むわけでもなく、どちらかといえばひっそりとしたお話なのに、の割には広く読まれてファンも多いように感じていたので、なんだろうな、と思っていたら、芥川賞作品なのですね。それで合点がゆきました。この作品についてなんの情報もなく本屋さんに行って、なんとなく手にしたのが「スティル・ライフ」だったという人の積み重なりでこんなに広く読まれるものなのだろうかと、ずっと不思議だったのです。


前回感想文を書いたときにも引用しましたが、印象的な冒頭をいまいちど。


この世界がきみのために存在すると思ってはいけない。世界はきみを入れる容器ではない。
世界ときみは、二本の木が並んで立つように、どちらも寄りかかることなく、それぞれまっすぐに立っている。
きみは自分のそばに世界という立派な木があることを知っている。それを喜んでいる。世界の方はあまりきみのことを考えていないかもしれない。
でも、外に立つ世界とは別に、きみの中にも、一つの世界がある。きみは自分の内部の広大な薄命の世界を想像してみることができる。きみの意識は二つの世界の境界の上にいる。
大事なのは、山脈や、人や、染色工場や、セミ時雨などからなる外の世界と、きみの中にある広い世界との間に連絡をつけること、一歩の距離をおいて並び立つ二つの世界の呼応と調和をはかることだ。
たとえば、星を見るとかして。
二つの世界の呼応と調和がうまくいっていると、毎日を過ごすのはずっと楽になる。心の力をよけいなことに使う必要がなくなる。
水の味がわかり、人を怒らせることが少なくなる。
星を正しく見るのはむずかしいが、上手になればそれだけの効果があがるだろう。
星ではなく、せせらぎや、セミ時雨でもいいのだけれども。(p9-p10)


初めて読んだときは、外の世界と自分の世界をうまいぐあいに繋げることができない苦しさがあった頃(つまりは若かった頃)で、だから「なるほど」と思ったんです。そう考えればいいのか、そうして回りを見渡してみればいいのか、と。
でも月日が経って今読んでみて思うのは、わたしにはもう連絡がついたんだな、と。外の世界と内の世界との間に連絡通路があるな、と。そしてその連絡通路はわたしの場合「結婚」だったな、と。

星やせせらぎやセミ時雨と比べると、結婚というのはなんだかロマンのない単語ですけれども、でも星を見るより、せせらぎに耳を澄ますより、セミ時雨を浴びるようにして真夏の道を歩くより、強力な連絡をつけてくれます。紙を一枚提出しただけなのに不思議なものです。

何もしなくても連絡がついているので、毎日を過ごすのはこの小説が教えてくれた通り、ずっと楽になりました。そして、何もしていないからなのか、外の世界も、自分の世界も、どう繋げたらよいかわからなかった頃とは、違うものになっているような気もします。以前はどっちも頑ななものだったように思うけれど、あの頃に比べると今は、外も内も、ほんわり柔くなったかもしれません。


ちなみに、上のような冒頭で始まる小説ですから、まだ読んだことのない読者は、さぞ清澄で端正な物語を想像されると思いますが、そしてその通りなのですが、しかし本作品の主要部は「株で金を稼ぐ話」です。株で金を稼ぐのに、清澄で端正な小説なのです。

株で金を稼ぐ話を書いているのに清澄で端正であることが失われないのは、内と外とをつなぐ作者の連絡通路が清澄で端正だからなのだろうという気がします。


 『三月は深き紅の淵を』恩田陸


三月は深き紅の淵を (講談社文庫)

三月は深き紅の淵を (講談社文庫)

三月に読んだのです。三月は〜ってタイトルだから。何か意味が込められているなら、その月に読めば理解しやすいかなと思って。でも三月に読もうが、八月に読もうが、十五月に読もうが、得られる感想はさほど変わらなかったと思います。小説とはたいていそういうものなんですけど。


これは『三月は深き紅の淵を』という小説をめぐるお話です。あるはずなのに、どんなに探しても見つからない、『三月は深き紅の淵を』という一冊の本の行方を突き止めようとするところから物語はスタートして、2章、3章、4章と、それぞれ語り手が変わりながら『三月は深き紅の淵を』を追いかけていきます。


本が好きな人間にとって、「謎の本の正体を追いかける」というのは、どうせたいしたことない結果が待っているんだ、と心に保険をかけてはみるものの、どこかでわくわくするじゃないですか。どんな本だろう、本当にあるのかな、ないのかな、見つかった途端がっかりするパターンかもしれないけど「おおっ!」となったらいいな、と思って読むじゃないですか。


そう思って読んでいたのですが、わたしは第3章で、読む気が失せました。なんだってこんな酷い話を書くかな。


そのまま最後まで読んだのですが、もうどうでもいいやという気持ちになっていたので、結局『三月は深き紅の淵を』はなんだったのか、よくわからないままに物語は終わってしまいました。どなたか読んだら教えてください。