魔術はささやく

u-book2007-10-08


「お父さん、逮捕されてるのよ」

タクシーの運転手、浅野大造は人身事故を起こして警察に逮捕されます。相手の女性、菅野洋子は運ばれる救急車の中で「ひどい、ひどい、あんまりだわ」とうわ言のように繰り返し、病院に到着する前に死亡。大造は、自分の進行方向の信号は間違いなく青で、相手の女性がいきなり飛び出してきたのだと説明しますが、事故現場の目撃者はいなく、大造にとって有利な条件は何ひとつありません。明るい材料が見つからない浅野家に、知らない男から電話がかかってきます。


菅野洋子を殺してくれてありがとう。」


電話の声はいきなりそう告げます。

「本当にありがとう。あいつは死んで当然だったんだ。」


両親がいないため、伯母のいる浅野一家にひきとられた高校生の日下守は、この電話を悪質ないたずらだと思い憤ります。しかし、次の日もまた同じ男の声で電話がかかってきます。


菅野洋子を殺してくれた浅野さんは、まだ警察につかまっているんですか?」

「おい、ちょっとあんた――」

「早く帰してもらえるといいですね。警察もバカだ。ちょっと調べれば、あいつが殺されても仕方ないことぐらいすぐわかるのに」

そこまで言って、電話は一方的に切れます。ありっこない、これは事故なのだからと思いながらもどこか釈然としない守。そこへ、菅野洋子のお通夜に出掛けた伯母が怪我をしたという報せが入ります。遺族から顔に靴を投げつけられたのです。男物の重い革靴で、かなり出血をしていました。その報せを受けて守は考えました。


(警察がちょっと調べてみればすぐわかるのに)


顔に靴を投げつけたって?


(ちょっと調べてみれば――)

ちょっと調べてみようじゃないか。


そう決めた守は、菅野洋子という二十一歳の女性の私生活を調べることにします。小学校・中学校時代に大切な「友達」から教わった、守が持っているある特別な能力を使って。


日下守は、幼い頃に父親が会社の金を横領し失踪した、という過去を抱えています。母親は「わたしたちには何も恥じることなどないのよ」と言うだけで、父親について何も説明することなく、十六歳の守を残して逝ってしまいました。その守を取り囲む世の中の「善意」と「悪意」。些少で、卑しくて、薄汚い悪意が世の中にははびこっていて、ちょっと油断するとその渦の中心に巻き込まれて攻撃されてしまう。そのことを肌身に感じて知っている守は、だから悪意と戦う力を持った少年です。そういう少年の周りには自然と善意も集まってくる。


ここでもまた、思います。どんなに悲しいことがあっても、なにかに絶望しても、恨む相手を間違えるようなことだけはしたくない、って。でもそれはきっと、わたしが想像している以上にものすごく難しいことだと思う。いざそういう現実が自分を襲ったら、そんな考えは見事に吹き飛ばされてるかもしれないと思うし、その弱さと戦って勝てる自信も全然ない。でも、だからこそ、自分の中に存在してるその弱さを少しでも意識していたいと思う。恨む相手を間違えることが、どれだけの悲しみや怒りを周囲に撒き散らすことになるかも、きちんとわかっておきたい、そう思います。





宮部みゆき著『魔術はささやく』新潮社>