交渉人

u-book2008-03-23



コンビニ強盗犯が患者を人質にして病院に立てこもった――。

事件にあたったのはネゴシエーターとしての豊富な知識と経験を持つ石田警視正と、彼にそのイロハを教わった元研修生の遠野麻衣子。

人質を無事解放し犯人逮捕を目的として進められる交渉は石田警視正のシナリオ通り、一見誰の目にも順調であるかのように見えた。興奮した犯人を電話口の会話だけで懐柔、誘導していく。うっとりするほどに冷静沈着で、存在感のある声。完璧なまでのネゴシエーション。遠野麻衣子にとっての講師であり、上司であり、男である石田警視正の捜査能力は衰えることなく今この現場に君臨している。

石田は犯人に人質解放の約束をさせ、彼らに逃走用のバイクを手配、その追跡要員と現場の体勢も整え、病院内に残された人質は全員無事に保護できるかに思えました。

しかし、人質はすでに殺されていたのです。しかも犯人の目的と思われていた金庫の中の多額の現金は放置されたままで。


いったいなぜ。


病院という場所の専門性と閉鎖性と封建制。その壁に立ち向かうことのできなかった市民の怒りと絶望をこの小説は訴えています。要するに「医療過誤」の問題を取り上げているのですが。


病院側のミスで自分の家族を死なせて(殺されて)しまったとき、わたしは何を思うのだろうとできる限りの想像力を働かせてみますが、そんなのわかるわけがない。医者を殺したいと思うだろうか。思って、実際に殺そうとするだろうか。正直、しないなぁと思うけれど、現実にその立場になってみたらわからない。誰よりも殺意を持った自分が現れるかもしれない。全然わからない。



遠野麻衣子は犯人に言います。

「あなたたちは彼らを殺すべきではなかった」


それに対する犯人の答えはこうです。

「遠野さん、それは他人事だから言えるんですよ」


犯人の言うとおりだと、一読者のわたしは思います。自分の身内を殺されて、その殺した相手に復讐をすべきか思いとどまるべきかなんて話は、当事者と第三者のあいだで折り合うはずがない。
病院への怒りと自らの苦しみを声にして訴え、死なせてほしいと願う犯人に、それでも遠野麻衣子は言います。


「あなたには、まだするべきことがあります。」と。
「あなたは戦わなければならない。あなたは人を殺した。これから長い長い裁判があなたを待っています。でも、そこであなたは戦うことが出来る。なぜあなたが彼らを殺したのか、なぜ殺さざるを得ない立場に追い込まれたのか。わたしにはその理由はわかりません。病院というシステムの問題なのか、医者のモラルの問題なのか、それとも他にもっと大きな社会的な問題があるのか」
「でも、わからないのはわたしだけではないでしょう。誰もが、現実がおかしいことに気づいている。でも、わからないから、どうにも出来ずにいる。もうそろそろ、本気で考えてもいいんじゃないでしょうか。そうでないと、またこんな事件が必ず起きるでしょう。そのために、あなたは戦うべきだとわたしは思います。」


これも他人事だから言えるんだろうな、とわたしは思わずにはいられません。でも、実際にまだそういう立場になったことがないわたしがこれを読んで、他人事の理想論のセリフを聞いて、もし理想どおりの行動ができるのなら、それにこしたことはないなとも思います。この理想論を、大切な人を殺されてしまってから聞いても耳には届かないだろうけれど、第三者の立場でいるうちは聞くことができます。

ある物事を客観的な立場でみつめ、判断したときに「正しい」と下した結論を、いざ当事者になったときにどこまで実現できるか。勉強するって、そういうことなんだろうな。





五十嵐貴久著『交渉人』幻冬舎