密やかな結晶

u-book2008-03-29



ひとつひとつ何かを失っていく島。


消滅―それはある日突然やってきます。リボン、エメラルド、鈴、切手、香水、鳥、フェリー、いんげん、バラ… この島の人たちはそうした心の中のものを順番にひとつずつ、なくしていかなければならない。


消滅が起こるとしばらくは、島はざわつくわ。みんな通りのあちらこちらに集まって、なくしてしまったものの思い出話をするの。懐かしがったり、寂しがったり、慰め合ったり。もしもそれが形あるものだったら、みんなで持ち寄って、燃やしたり、土に埋めたり、川に流したりするの。でも、そんなちょっとのざわめきも、二、三日でおさまるわ。みんなすぐにまた、元通りの毎日を取り戻すの。何をなくしたのかさえ、もう思い出せなくなるのよ。


なんだそれ。と、頭の固いわたしはいくぶん抵抗を覚えます。ずいぶんと不思議な現象なので理解するのに少し戸惑いがあります。最後の方になると「左足の消滅がやってきた」っていうのもあるんです。左足の消滅? 読む限りにおいては物体としての左足は存在しているらしく、「消滅」というのは、あくまで人の意識の中からなくなる、ということのようです。ふたたびそれを目にしても、それが何であったのかがわからない。心の中にあった「素敵なものたち」が消えていく。


ただその島に、なぜか「消滅」を体験しない人たちがいます。島のみんなが忘れてしまったものを、いつまでも記憶にとどめておける、とても少数の人たちです。島の「秘密警察」はそういうひとちたちを見つけては、どこかへ連行していきます。それは「記憶狩り」と呼ばれるものです。狩られたあとどうなるのかは誰にもわかりません。無事に戻ってきた人がいないからです。主人公の母親も消滅を体験しない人のひとりでしたがある日秘密警察に連れて行かれ、一週間後に心臓発作の死亡診断書とともに遺体で帰ってきたのでした。


小説を書いて暮らしているわたしは、やはり母と同じように記憶を失わない編集者R氏を匿うようになります。自分の家の、昔父親が書庫として使っていた部屋を、R氏が暮らせるような「隠し部屋」に改造するのです。そうしてすこしずつ消滅がすすんでいくわたしと、なにも失わないR氏との生活が始まります。


うだうだと難しいことを考えないで読むことが重要です。消滅とはなにか、とか、消滅したものはそのあとどこに行ってしまうのだろうか、とか、そんなことは考えないで読むべきです。消滅は消滅なのです。左足がないといったら左足ははないのです。うるさいことを考えていると、この小説が提示している雰囲気を味わえなくなってしまいます。


というわけで、わたしはもう一度、固い頭をほぐして読む必要がありそうです。





小川洋子著『密やかな結晶』講談社