冒頭にある終着点


冒頭の一ページが、おもいっきりかっこいい小説というのがあります。わたしにとってそれはポール・オースターの『ムーン・パレス』だったり、レイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』だったりするのだけど、ヘルマン・ヘッセのこの『春の嵐』も最初の一ページがすばらしくかっこいい。(ただし、わたしは外国語で本を読めないので、訳文における感想であることを予めご了承ください。)
冒頭がかっこいい小説というのは、その作品の世界観や美意識が確固たるものとして、その最初の一文、あるいは数行の中にぎゅっと凝縮されています。それは物語の最初だけれど、同時に、物語の終着点であるかのような面を持っています。

自分の一生を外部から回顧してみると、特に幸福には見えない。しかし、迷いは多かったけれど、不幸だったとは、なおさらいえない。あまりに幸不幸をとやこう言うのは、結局まったく愚かしいことである。なぜなら、私の一生の最も不幸なときでも、それを捨ててしまうことは、すべての楽しかったときを捨てるよりも、つらく思われるのだから。避けがたい運命を自覚をもって甘受し、よいことも悪いことも十分味わいつくし、外的な運命とともに、偶然ならぬ内的な本来の運命を獲得することこそ、人間生活の肝要事だとすれば、私の一生は貧しくも悪くもなかった。外的な運命は、避けがたく神意のままに、私の上をすべての人の上と同様に通り過ぎて行ったとしても、私の内的な運命は、私自身の作ったものであり、その甘さにがさは私の分にふさわしいものであり、それに対しては私ひとりで責任を負おうと思うのである。


かっこいいよね。「偶然ならぬ内的な本来の運命を獲得すること」。こういう一文を目の前に出されると、自分の本来の運命を手につかみとりたくなる。そういう文章。ヘッセ(主人公)は、どんな運命を獲得したんだろう、あるいは自分の望んだ運命を獲得しようとして、どんな外的な運命に巻き込まれたんだろう。



春の嵐』。タイトルがもう、すばらしい。


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