オンリーロンリーグローリー

冒頭がすばらしくかっこいいとお伝えしたヘルマン・ヘッセ『春の嵐』ですが、(ちなみにこれ、原題は『Gertrud』(ゲルトルート)つまり女性の名前なんですね。『ゲルトルート』の邦題を『春の嵐』にしてしまう感性を訳語としてどう評価するべきなのかよくわかりませんが、『春の嵐』というタイトルはこの小説にすばらしく合っていると思います。)最後までその美しさは損なわれませんでした。最後まで読んで、やはりこの小説の冒頭には物語の終着点が内在しているのだと感じることができました。

物語は音楽家を志す主人公の悲恋を描いたものです。ただ、恋とは別に、いや、おそらく恋という感情も含めて、人生における内的な幸福の在り処を求めた作品でもあると思います。

以下の引用文は、主人公のクーンが事故で左足を不自由にしてしまったとき、彼の将来を心配した母親との会話の中で綴った心情です。

音楽に遠ざかり、幻滅を感じていた時代が頭に浮かんだ。私は自分の心境を母に説明しようと試みた。彼女にもそれはわかるらしかった。(中略)とにかく最後まで修行してみる、といった。ひとまずそういうことになった。女にはうかがえない私の心の底には、ただ音楽があるのみだった。バイオリンがものになるかどうかはわからなかったが、私はふたたび世界がすぐれた芸術品のように響くのを聞き、音楽以外に自分の救いはないことを知った。からだのぐあいがバイオリンを許さなければ、それは放棄しなければならなかった。おそらく他の職業を求めて、商人にでもならねばならなかった。しかし、そんなことはさして重要ではなかった。商人、あるいはなにかほかのものになっても、私は同様に音楽を感じ、音楽の中に生き、呼吸することであろう。私はふたたび作曲をするだろう。私が楽しみとしたのは、母にいったように、バイオリンではなかった。私が手をふるわせて求めていたのは、音楽をやること、創作だった。早くも私は、昔のいちばん好調だったときのように、ときどきまた澄んだ空気の高い振動と思想の緊張した冷気を感じた。また、それに比べれば、不具な足やその他の災難もたいしたことではない、と感じた。
そのとき以後、わたしは勝利者であった。

世界がすぐれた芸術品のように響く、というのは、本当に世界が芸術品のように響いたのを思い描いた人にしか書けない表現だとわたしは思うわけで、だからヘッセの耳に聞こえた世界の響きを想像するとき、わたしは感動してしまうのです。世界がすぐれた芸術品のように響く!!なんて壮大な想像力だろうか、と。

そして自分を救う道が見えたとき、人はすべての災難を超越して勝利者になれる。この瞬間の輝かしさは思い描くだけでワクワクします。それこそまさに、わたしにとっての『オンリーロンリーグローリー』なわけです。ヘッセとBUMP OF CHICKEN がここでつながります。「選ばれなかったら選びに行け、ただ一つの栄光」。聴いたことある方ならわかるよね。その栄光の端っこを主人公のクーンはここで手に掴んだのだとわたしは思うのです。

ヘルマン・ヘッセの『春の嵐』。わたしにとって、極上の輝かしい青春小説のひとつです。




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