生きた家具

フランス文学というのは、美しいものをより美しく、醜いものをより醜く描こうとします。そのために修辞的な表現がすごく多い。彼女の肌は、なんとかのなんとかのようにきめ細やかで、その色はなんとかのなんとかのように白く透き通り、なんとかのなんとかのように誰もを虜にする、というような。それは現代の、あるいは日本人のわたしからみると大袈裟な文章だけれど、その超過分のところを素直に受け入れてしまえばフランス文学というのはなんとも絵画的、詩的、様式的に豪華盛大で華やかになります。

そして美しいものをより美しく、醜いものをより醜く描くというのは、美しいものを深く愛し、醜いものを嫌悪するというフランス文化の特徴を現わしているように思います。物でも動物でも人間でも、美しくないものや醜いものに対する冷徹さは、他の国の文学と比べて群を抜いているように思います。主人公ジャンヌの母親の妹であるリゾン叔母もまた、その冷徹さの的になっています。

(リゾン叔母は)まるで影のような存在、あるいはまた日頃なじみの品物といった存在だった。いわば、毎日見なれてはいるが、けっして問題にされることのない生きた家具だった。
姉(ジャンヌの母)は、父の家にいたときからの習慣で、彼女のことを、完全に無価値な、できそこないの女のように見なしていた。皆は、一種軽蔑的な親切を隠している無遠慮ななれなれしさで扱っていた。(中略)だれか彼女に話したいことでもあると、女中を呼びにやった。そして彼女が呼びに行った場所にいないと、もう彼女のことなど気にもとめなかった。彼女のことなどけっして考えないのである。「おやどうしたんだろう、そういえば今朝はリゾンを見かけなかったね」などと心配したり、きいたりするような考えは、けっしてだれの頭にも浮かばなかったであろう。
彼女はけっして場所を取ることはなかった。世には、人跡未踏の地のように近親のものにも全然知られないでいる人たちがあるものだが、彼女もそういう人たちの一人だった。その死もけっして家庭のなかに穴も空虚も生じないような人々の仲間だった。自分たちのそばに住んでいる人々の生活のなかにも、習慣のなかにも、また愛のなかにもはいるすべを知らない人々の一人だった。
「リゾン叔母」と発音しても、この二語は、だれの心にも、いわばどんな愛情も、目覚めさせはしなかった。まるで「コーヒー沸し」とか「砂糖壺」と言われるとおなじだった。


生きた家具って。。。そこまで言わなくてもいいじゃないか思うけど、そこまで言っちゃうのがフランス文学の醍醐味ですよね。高貴なものはとことん高貴に、卑しいものはどこまでも卑しく貶めます。その文章には細身のジーンズに白いシャツを着せただけのような軽やかな爽やかさはなくて、十二単の上にさらに十二単を着せてその配色をひとつずつ記述していくようなリアリズムがあります。いやぁ、おもしろい。


今、主人公ジャンヌは結婚をして、人の妻になったところです。はやくも不穏な空気が流れ始めています。




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