小説が書かれた時代の風景がここにある。

金谷六助のセリフ。

それあぼくたちは人間であることをほこり得るような生活をしなければならないさ。だが、富永(六助の同級生)の説によると、人間はいつの時代でも原始人の感覚から完全に抜けきるというということはできないという、つまり、文化というのは、人間が原始時代からもってる欲望をどう処理するか、その段階だというんだ。たとえば、食欲について考える。原始人は、空腹を感じると、いつどこでも、手づかみでナマの物を食べた。ぼくたちは空腹という感覚から今日でも抜け出すことはできないが、しかし、時間を定め、清潔な食器を用い、食物をさまざまに調理して、空腹を満たす。これが文化というんだね……」<中略>「そういう文化という見地から日本人の食事法を考えると、腹を満たす量だけ考えて、質を吟味するまでの段階に達しておらなかった。……戦に負けたばかりの今日の場合は特別だがね。
この傾向は男女の関係の上にも現われて、一対の男女が夫婦となって家庭を営んでいくという形式には変りないが、日本人は、真面目な精神力を費やさなければならない恋愛を敬遠して出雲の神様だの、三々九度のさかずき事だのという簡単なオマジナイで、男女が結びつく習慣をつくった。
そして、そういう暮し方の根底に横たわっているものは『要するに――』という、安易で消極的な人生観なんだよ。食事は、要するに胃袋を満たせばいいんだし、男女は、要するに夫婦となって子供を生めばいい。むずかしいことはいわんで、間に合せていけばいいという主義だね。素朴だといえば、そうもいえるが、しかし、そういう素朴さを合理的に高めていく過程が文化というものなんだから、やっぱり、もっとまっすぐな、骨おしみをしない生活に改める必要がある……。
ただその場合、注意しなければならないことは、日本人は観念主義者だから、民主主義だの、恋愛だの、人間の基本的権利だのという言葉が持ち出されると、それを迷信染みたものにしてしまい、それをうのみにしてしまえば、何もかもよくなるんだという、安易な考え方に陥りやすい。そこを警戒しなければならない訳だ……」


この小説が書かれた時代の「風景」が、すっと身体に入りこんでくる。まるで自分がその場で話を聞いているかのように、彼らと一緒になってこの問題について考え始める。この時代を生きた人が、どういう時代を生きて、どう生きようとしたのかを、自分の問題のように考え始める。

こういう小説があるんですよね。ああ、すばらしい。
今の時代を生きるわたしたちが、どういう時代を生きて、どう生きようとしたのかが未来の誰かに伝わるような小説には、まだ出会ったことがありません。




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