仲里博士の無念を晴らしてほしい。


探偵・石神のところに、ひとりの少年がやってきます。「自殺した同級生の父親のことを調べてほしい」と。その人は自殺じゃないかもしれない。だからもし自殺じゃないならその人の無念を晴らしてほしいと。

自殺した仲里博士は沖縄の大学の教授で、海底にある遺跡や石版などを調べていた。そして海底で発見されたある鍾乳洞を仲里博士は一万年以上前のものと考え、さらにはそこに文明の痕跡を見つけようとしていた。果たしてその鍾乳洞から文字の刻まれた石版が発見された。本物なら文明の痕跡の証拠となり得る貴重な発見である。ところがそれが捏造だとある地方紙が報道した。その疑惑の矢面に立たされたのが仲里教授だった。仲里教授は捏造疑惑をきっぱりと否定し、そもそも石版を発見したこと自体を否定した。しかし一度かぶせられた汚名は簡単には消えなかった。仲里博士が死んだのは捏造疑惑から約一ヶ月後だった。警察は周囲の状況や遺書とも思える手記が見つかったことから自殺と断定。捏造疑惑の真相は本人の死によって藪の中となったが、世間の論調は本人が死ぬことによって捏造を認めたという方向に傾いた。

警察と事を構えたくない上に若者が嫌いな石神はこの調査にまったく気が進まなかったのですが、アシスタントの明智君の強い論調に負けて渋々引き受けることになります。


ところで小説の中だけではなく、現実の社会でも捏造疑惑が持ち上がると「歴史を改ざんする」ことの悪をマスコミが声高に訴えます。でも歴史を変えてしまうことがどれだけの重要性なり危険性なりを持ちうるかを、本当にわかって発言する人が果たしているのかどうか、よくよく疑問ではあります。わたし個人は捏造そのものは悪だと思うけれど、それがどれほどに悪かということになると、よくわかりません。


大昔の石版が何だというのだろう。石神はついそう考えてしまう。
歴史が変わったからといって、この先の人類の行く末が変わるわけではない。第一、歴史などというのは、いい加減なものだ。誰も見たことがないのだ。
(50項)

 


石神と同じ意見の人は少なからずいると思います。わたしもそう思わないわけじゃない。ただ、わたしは聞きたいし、知りたいとも思う。この意見をきちんと打ちのめしてくれる論理的な説明を。歴史が「そうであった」場合と「そうでなかった」場合で、人類の幸不幸にどんな影響を及ぼし得るのか。歴史が変わっても人類の行く末が本当に変わらないなら、歴史を知ることに意味はないと思う。未来が変わるから、歴史を知る意味があるのだと思う。
発見したものの価値じゃなくて、それが発見された時代の文化や文明の価値でもなくて、それが発見されたことによって生まれた未来の価値を、もうちょっと一生懸命に説明してくれてもいいんじゃないかと思ったことを、今また思い出しました。





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