巨人のくそったれ。

そもそもの始まりはラジオだった。野球中継を放送していた。居酒屋のカウンターにひじをついたわたしは、ぼんやり放送を聞いていた。
しばらくするとセンセイが入ってきて、わたしの隣りに座った。
「ツキコさんの贔屓の球団はどこですか」とセンセイが聞いた。
「特に」とわたしは答えた。
「ワタクシは、むろん巨人です」とセンセイは言った。いつもより熱意がある。
「むろん、ですか」
「むろん、です」
中継は巨人阪神戦だった。贔屓の球団はないが、じつはわたしは巨人嫌いだ。
「ツキコさん、どうしたんです」七回表にホームランが出て、巨人が阪神を三点リードしたところだった。
点差が開いてきてから、わたしはびんぼう揺すりを始めていた。そのとたんに巨人の選手がまたヒットを打った。「おおっ」とセンセイが叫んだのと、「くそっ」とわたしが思わずつぶやいたのが、同時だった。
「ツキコさんは巨人がお嫌いですか」
「だいきらいですね」わたしは低い声で言った。
センセイは目をみひらき、
「日本人なのに、巨人が嫌いとは」とつぶやいた。
「なんですかその偏見は」とわたしが言うのと、阪神の最後の打者が三振をくらったのとが、同時だった。センセイは椅子から立ち上がり、高く杯をかかげた。
「ツキコさん、勝ちましたね」にこにことしながら、センセイは自分の徳利からわたしの杯に酒をつごうとした。珍しいことである。わたしたちは、お互いの酒やつまみに立ち入らないことを旨としている。注文は各々で。酒は手酌のこと。勘定も別々に。そういうやり方を守ってきたはずだった。ところがここに来てセンセイが酒をつぐ。暗黙の取り決めを破る。これというのも、巨人が勝ったりするからだ。わたしとセンセイの間の心地よい距離を無遠慮に縮めにくるなんて、百年早い。巨人のくそったれ。
(40-43項、要約)

理不尽なのは承知ですが、ツキコさんの気持ち、よくわかります。





ご購入はこちらから↓