<伊坂幸太郎月間>『オーデュボンの祈り』vol.2


まだ、半分です。この作品の中には「桜」というキャラクターが出てきます。イントネーションは「上原さくら」のサクラではなく、まさしく木の「桜」と一緒。「桜」。人殺しです。そうでなかったら、「法律、ルール、規則、倫理と道徳(76項)」。桜の基準で、桜の判断で、人は銃殺されます。そういうキャラクターです。


桜の銃殺の対象となる人物が、数人出てきます。vol.1で紹介した「城山」と同じように極めて不愉快な人たちです。最初に読んだときのことをわたしははっきりと覚えていないのですが、二度目の今回、彼らの行いを見せられて、わたしは比喩的な意味ではなく、本当に吐き気がしました。


ここに絶対的な存在としての「桜」が、わたしの中でひとつの問題を提示します。これほどまでに不愉快な人間が死をもって裁かれない社会があるとしたら、キミはそれをどう受け止めるか、と。そういう社会の中で絶対的な力を持った制裁がどうして不正であると言えるのか、と。


物語にとっての桜がどういう存在かはわからないけれど、わたしにとっての桜の存在は、少なくともそういう側面を持っています。


わたしは決して「桜」の制裁を受ける人物へ同情の念を抱いたりはしません。きっと同情の念など露ほども抱けないようなキャラクターにしているのだと思います。そういう彼らの命は、命として、他の人間と等価であるかという問題の投げかけが、わたしにとっての「桜」です。繰り返しますが、わたしは彼らに対して一切の同情をしません。それでも、桜の行いが不正であると断言できるテーゼがあればどんなにかいいのにと思います。




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