<伊坂幸太郎月間>『オーデュボンの祈り』vol.3


「人が人を裁けると思うか」という桜の問いに対して、主人公の伊藤は「思う」と答えます。

「思う」これは僕の本心だった。死刑や刑罰の問題が起きるたびに持ち出される「人が人を裁いて良いのか」という主張が嫌いだった。何人殺しても死ななくて良い、という法律はすでに、法律じゃない。(303項)


わたしはvol.2の記事で、自身が法律となって人に制裁を下す「桜」の行いが不正であると断言できるテーゼがあればどんなにかいいのにと思う、と書きました。それは「桜」の存在をなにがなんでも否定したいということを指してはいません。もちろん「人(法律)が人を裁いていいはずがない」などと言うつもりもありません。人(法律)には、もしかしたら人を裁けるような価値はないのかもしれないけれど、たとえそうだとしても、それはなされなければならないことだと思います。人(法律)は人を裁かなければならない。


だから「桜」の行いが不正であると断言できるテーゼがあればいいと言うとき、わたしは桜の存在に悪を感じているわけではありません。わたしの真意は、<「桜」の行為が不正であるという絶対のテーゼがあれば、被害者の苦しみはもっとずっと楽になるのではないか>ということです。


無益な殺人事件を耳にするたびに思います。人を殺すことのもっとも大きな罪は、誰かの命を奪ったことよりも、生きている誰かに、生涯その悲しみや怒りを背負って生きていかなければならなくさせることだと。わたしは本当に心の底からそう思うのです。わたしは自分の大切な人が、無差別な偶然で誰かに殺されてしまったら、それから先の人生をどうやって生きていったらいいのかわかりません。でもそういうことが世の中では実際に起きているのだと思うと、やっぱりどうしたらいいのかわかりません。どうにもできません。ただ明るい未来を無邪気に信じるしかありません。


でももし、「桜」の行いが不正だと断言できるテーゼが世の中に存在していたならば、つまり「悪人」を「自分(=桜)」が裁けないことが絶対に正しいのだというテーゼがあれば、わたしはその悲しみを、あるいは受け入れることができるかもしれないと思うのです。自分は「桜」にはなれない。自分が「桜」なることは間違っている。その絶対のテーゼがあれば、少しは救われるのではないかという気がするのです。なぜなら大切な人の命を、わけのわからない誰かに奪われたときのわたしの悲しみや苦しみや怒りは「どうしてわたしは「桜」になれないんだろう」という疑問にあると思うからです。


「桜」の存在が否定できないときの苦しさを、わたしはきっと耐えることができないと思います。