<感想文月間>『坊っちゃん』


なんとかかんとかの企画に応募するはずだった感想文ですが、あっという間に締め切りが過ぎ去ってしまいましたので、字数も何も関係なく、のびのーび感想を書きます。


もうすでに言いましたが、それから言わないと『坊っちゃん』の感想は始められないし終われないので、もう一度繰り返して言います。世の中に「軽快」であると評された小説はいくらでも存在するだろうけれど、そのすべての小説にこの作品を突きつけてやりたい。「軽快」とはこういうことを言うのだと。文豪夏目漱石文学史的位置づけによる『坊っちゃん』の評価をわたしは知らないけれど、わたしにとっての『坊っちゃん』はその軽快さが、何よりも印象的だし、すばらしいと思う。もはや奇跡的なまでの軽快さだと、わたしは思う。なんかもう、涙が出るくらい。『坊っちゃん』に限らず、漱石の文章は日本語の奇跡だと思う。とは言っても、それはもちろんわたしがひとりで熱くなっているだけで、学術的な説明はできないのだけれど。


軽快だけれど、決して軽々しくはなくて、むしろ最初から最後まですべて大真面目の話。いささか大袈裟な物言いが多いから、必ずしも字面どおりの意味で100%等しく捉えるわけにはいかないけれど、でも不真面目さや不誠実さはなくて、やっぱりどれもこれも真実で、嘘がない。そうして大真面目に語られる文章なのに、大真面目が背負いがちな息苦しさから、作品全体が解放されている。ものの見事にきれいさっぱり。どこでどう切り取っても、どこからどう眺めても、どこもかしこも隅々まで点検しても、停滞感はなく、焦燥感もなく、心地よいリズム感だけが作品の端から端まで行き渡っている。そして大真面目。こんなにも隙がないのに軽快で、軽快なのに隙がない文章を、他に誰が書けるというのか。


そうして一切の物語の外にあるリズムに脅かされることなく、物語それ自身がもつリズムに乗って最初から最後まで進むのです。その意味では、読者が入り込む余地だってどこにもありはしません。感情移入しようと思っても、その先にある新たなリズムがさっさとさらって行ってしまうし、心地よい風をのんびり感じようとする瞬間が訪れても、風に乗ってやってきた言葉のリズムにいつのまにか自分も乗せられていることに気がつくだけです。そしてそれが、風を感じるよりも心地よい。という圧倒的な文章。


そして、大真面目が軽快なリズムに乗ってずんずん進んでいって、最後にたどり着くのが清の墓なのです。軽快な文章の、しかもそのラストにお墓を登場させて、それがコメディになったりせず、そこにたどり着くまでに流れていたリズムを乱すこともなく、お墓はお墓としてやっぱり大真面目に登場して、大真面目に登場しながら重苦しさを帯びることはなく、ただ、ああ温かい。と思う。そういう軽快さ。


この日本語はやっぱり奇跡だと思うんだよね。