<約束月間>『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で―』


月が変わってしまいましたが、約束月間、最終です。水村美苗の『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で―』。発売されたとき(店頭に並んでいるのをみたとき)、とてもとても欲しいと思い、しかしそのときはなんとなく躊躇して買わなかったのを、読んだ人の感想(わたしにとっては、最も信頼性の高い感想)を聞いて、やっぱりひどく読みたいと思って、買った本です。にもかかわらず、いざ読むにあたっては、真剣な姿勢を自ら望んだために、ずいぶん長い間、読めずにいた本です。



部屋にはあるけれど読めずにいたその間に、この本をめぐって、わたしは友人と言い争いをしました。わりと派手に。一歩も譲らない争いの結果、しかしふたりともこの本を読んでいなかったので(読みもせずに争っていたので)、読んでからにしようと。そういう事情の約束月間。



そのとき友人の言ったセリフはこうです。「言葉が簡単になって、広く流通するのは言葉の進化であるはずなのに、昔の言葉を守ろうとしたり、その変化を嘆いたりするのは理解できない。」
一字一句、このままのセリフではありません。さらに、字面がどうだったかということよりも前に、友人がこの言葉通りの意味のことを発したかどうかも、今となっては甚だ心許なくもあります。違う意味のことを言いたかったのかもしれません。ただ、このときのわたしは、そういう意味のことを言っているのだと、解釈しました。「言葉は、広く流通してこそ、意味がある」と。「広く流通することが、言葉の最も望むべき方向性だ」と。



みなさんはどのように思うのでしょうか。



わたしは友人の言葉に暴力的な悲しみを覚え、そこには恐ろしく冷淡な怒りも伴いました。



流通する言葉にはそれだけで意味があると思います。言葉を発したとき、それが誰にも伝わらないのは、ひどく悲しいことだと思うからです。自分の言葉がより多くの人に届くのであれば、それは嬉しいことだと思うからです。であるならば、ひとりでも多くの人に届く言葉を使い、ひとりでも多くの人に届く言葉へと、言葉自身が変化していくことは喜ぶべきというのが、おそらくわたしの友人の意見です。少なくともわたしはそう解釈しました。たしかに自分の言葉がひとりでも多くの人に届くのは、喜ばしいことです。それはわたしも、そう思いますし、強く望んでもいます。でも、だからといって、ひとりでも多くの人に伝わる言葉をわたしが選ぶかと言ったら、少なくとも現時点まででわたしは選んできませんでした。わたしは自分と密接なつながりを持つ日本語を使い、その中でもさらに自分と密接なつながりを感じる単語や表現を選んで、文字を書いてきました。文章を組み立ててきました。そういう言葉をひとつずつ選んできました。



わたしは、たとえば漢文学を守りたいと思っているわけではありません。昔の言葉のほうが、今の言葉よりも美しいと信じているわけでもありません。たとえば日本語のほうが、英語よりも優れているという評価を持っているわけでもありません。というよりもそれほどの教養がありません。ただわたしは、わたしと密接につながっている言葉を、ただひたすらに守りたいと思わずにはいられません。自分の言葉が、ひとりでも多くの人に届いたらと願わずにはいられません。でもそれは、わたしの言葉でなければならないのです。
昔の「自分のものではない言葉」に対してどう思うかということではなく、今自分が使っている「自分の言葉」に対してどう思うかということを、わたしはよっぽど考えたいのです。「広く流通することが言葉の進歩である」というわたしの友人にとって、では今あなたが使っている言葉をあなたはどう考えているのですか、とわたしは問いたいのです。その言葉を守りたいとは思わないのか、と。あなたの言葉を、そしてそれはきっとあなただけが紡ぎ出せるはずの言葉を、守りたいとは思わないのかと。誰かの心に届けたいとは思わないのかと。
きっと友人のほうが利口なのです。わたしは、友人があまりにあっけなく言葉の流通性の優位を受け入れられることへ、幼い反発をしているに過ぎないのでしょう。
わたしの言葉は、決して広く流通する類の言葉ではありません。わたしの言葉は、日本語というごく限られた範囲でしか使われない言葉ですし、そのごく限られた範囲の中でも、さらにごくごく限られた人の目にしか届かないところで文章を書いていますし、もっと言えば、その中のさらに一部の人にしか、わたしの言葉は意味を持たないからです。
だから友人の言葉は、わたしにとっては、わたしの言葉には意味がない、ということだったのです。いえ、もちろん、わたしの言葉に意味などないでしょう。わたしの言葉に意味がないのはまぎれもなく本当のことだけれど、でも、どうにかどこかで自分の言葉が意味を持つものとして誰かの前にそっと現れてほしい、とそう願って文章を書いています。そのためには、どんなに限られた範囲でしか読まれない言葉であっても、わたしの言葉でなければならないのです。ですからそれは、続けていくしかないし、その言葉が意味を持たないまま消えてしまっても、それは理由の如何に関わらず仕方のないことです。でも友人の言葉はわたしのちっぽけな言葉だけではなく、たとえそれが夏目漱石の言葉だったとしても、それが読まれなくなり、理解する人がいなくなり、それでも人類においてより多くの人が同じ言語を共有するようになれば、それは言葉の進化である、ということを意味したのです。



わたしは友人の言葉に悲しみ、怒りを覚えましたが、でも、本当に悲しかったのは、夏目漱石を読む人がいなくなっても多くの人が言語を共有すればそれは言葉の進化である、ということに対してではありませんでした。わたしの心をかき乱したのは、流通しない言葉にも意味があることを理路整然と説明する術を持たない、わたしの力のなさでした。こんなにも強く、そこにある言葉の力を証明したいのに、それができないことへの悔しさでした。言葉の第一義は流通することではないと、はっきりと声を高らかに宣言できる知恵を持たない自分の愚かさでした。
わたしの言葉がわたし以外の誰にとっても意味を持たないのは、とても悲しいことです。でもさらに悲しいことは、流通しない言葉の意味を、友人に提示できない自分の無力さと、それができるほど言葉というものを真剣に考えてこなかった過去の自分の浅はかさでした。




日本語が亡びるとき』を読んで、わたしは何度も悲しくなりました。彼女の言葉は、なんどもなんども、わたしの胸に迫りました。何がそうさせたのかをここでもわたしは正確に説明することができません。ただ、この本の中はこれでもかというくらいに、彼女の憂いで満ちています。それと同じくらいの願いで満ちています。その憂いと願いを持ちうるだけの巨大な知識と、その知識を土台にした確かな想像力で満ちています。わたしには彼女の言葉がそのように届きました。そして、彼女の言うことが正しければ、彼女の言葉がわたしと同じように届く人の数は、これから先どんどんどんどん減少していくであろうというのです。そのことを思って、わたしは悲しくなりました。届かない言葉の運命を思って、とても悲しくなったのです。


書くという行為は自慰行為ではありません。書くという行為は、私たちの目のまえにある世界、私たちを取り巻く世界、今、ここにある世界の外へ外へと、私たちの言葉を届かせることです。それは、見知らぬ未来、見知らぬ空間へと、私たちの言葉を届かせ、そうすることによって、遇ったこともなければ、遇うこともないであろう、私たちのほんとうの読者、すなわち、私たちの魂の同胞に、私たちの言葉を共有してもらうようにすることです。唯一、書かれた言葉のみがこの世の諸々の壁――時間、空間、性、人種、年齢、文化、階級などの壁を、やすやすと、しかも完璧に乗り越えることができるのです。そして、英語で書かれた文学は、すでにもっとも数多く、もっとも頻繁に、この世の壁を乗り越えていっているのです。(84項)


この本の中にある、わたしにとってとても大切な箇所のひとつです。




もし友人とまたバトルを再開しても、勝てる気がしません。わたしはわたしの言葉で、言葉の持つ流通性以上の貴重さを、論理的に訴えられるとは到底思えないのです。勝利を勝ち取ろうと思ったなら、この本よりもさらに強大な理論が必要とされるのではないかと思うのです。とは言いながら、実際にはこの本への理解さえ追いついていません。この本の感想文を書くのに、わたしにはやはり学がなさ過ぎました。




でも、今書けることだけでも書いておきたかったのです。そして、たとえ勝利が得られないとしても、勝利を得るためのあらゆる方法を模索する姿勢を持ち続けたいと思うのです。そのことがきっと、わたしの言葉も育ててくれると思うのです。




言葉の持つ、あらゆる壁をやすやすと、完璧に乗り越える力が、わたしも欲しい。