<『われらが歌う時』月間>読了。


年内に読み終えることができて本当によかった。年内に感想を書きたかったから。



上巻の冒頭にあった「グランドピアノのくぼみに身をもたせている」というシーンがわたしはとても好きで、ひと月前となってしまった前回の記事にもその箇所を引用しているのだけれど、まさかこのあとにも同様のシーンが何度か出てくるとは思っていませんでした。「グランドピアノのくぼみに身をもたせて歌う」シーン。作者も好きなんですね、きっと。この絵が。



少し真面目な話を書きます。せっかく読んだし、せっかく年末だし、一年の締めくくりに。



わたしは自分が生まれてきた意味というのをよく考えます。正しい答えがあるとは思わないけれど、自分で見つけた答えを手にしていたいと思うのです。わたしはもうすぐ29歳になるけれど、29年の間で、その答えは常に一緒ではありませんでした。いつの時点でどんな答えを持っていたのか、そのほとんどはもう忘れてしまいました。でも最近また、新しい答えを出しました。


ひとつは、小説を書くこと。


最初に書きたいと思ったのはたぶん高校生のときです。それからずっとずっと小説を書きたいと思い続けて今に至ります。どんな小説を書きたいかというその目標の形は常に変化していて、今も決まった形には収まっていません。ただ小説を書きたいという気持ちだけは変わらずにずっとあります。


もうひとつは、誰かを心底、愛すること。


わたしが生まれてきた意味は、小説を書くことと誰かを愛すること。少なくとも今のわたしはその答えを手にして物事を見つめています。そしてさらに重要なことは、もし小説を書くことと誰かを愛することのどちらかを犠牲にしなければならないとしたら、わたしは迷わず小説を捨てて、誰かを愛することを選ぼうと決めていることです。でもそれは誰かを愛することのほうがわたしにとって重要だと言っているわけではありません。もしかしたら、わたしには小説を書くことのほうが重要かもしれません。どちらのほうが重要かなどということを、今ここで知ることはできません。どちらが重要なことかわたしにはわからないけれど、でも、だからこそ、どちらかを犠牲にしなければならないとしたらという仮定においての答えを出しておかないと、ふたつは並立し得ないと思うのです。捨てるほうが決まっていて初めて、ふたつの解答を手にしていられるのではないかと、そう思うのです。


『われらが歌う時』は誰かを心底愛した結果を常に見つめ続け、そしてその成否を問う物語です。主題はそうではないのかもしれないけれど、わたしにとってはそういう物語でした。愛したことの正否を問うのです。たとえ間違っているのだとしても、愛したことの正を信じて、目の前に突きつけられる愛したことの否と戦う物語でした。最初から最後までずっと、読者のわたしも無傷ではいられませんでした。繰り返しますが、誰かを深く愛したことの正否を問うのです。そんなこと、なんでしなくちゃいけない?


アメリカの人種差別問題が物語の重奏低音となっています。白人の夫と、黒人の妻から生まれた3人の子供。彼らの歩む人生の話です。黒と白。白と黒。世の中にはふたつしかない。ふたつの札しか持たない社会で、自分だけの札を懸命に掴もうとする戦い。


物語を通して、いえ、どちらかといえば、物語が進んで行けば行くほど、傷は増え、深くなり、そしてついには痛みを感じなくなります。涙だけが胸の中にどんどんたまっていきます。誰かを深く愛したことの正否を問い、否だったという答えにたどり着いたとき、いったい誰が誰を救えるというのでしょうか。社会のシステムや慣習が、誰かにその答えを導き出させるのだとしたら、わたしたちは、誰かを深く愛したことが正だという真実を、いつも社会に向けて突きだしていかなければならない。そうしなければならない家族の、そうしようとした家族の、戦いの物語だったとわたしは思います。


訳者のあとがきにはこうあります。


二つの世代に沿って交互に語られる二つの物語が一千侯頁に渡ってきつく縒り合わされた本書を読み終わる頃には、読者は経験不可能で想像不可能だったはずの二十世紀アメリカの人種問題を生きてしまっている。

たしかにその通りだったなと、思います。




また、読みます。