『子どもたちは夜と遊ぶ(上)』辻村深月


まだ途中ですが。


読み始めて100ページ目くらいのところで「どう?」と尋ねられ、ほとんど中傷と思われても仕方ないような罵倒を返してしまい(「うざい」とか「気持ち悪い」と言いました。)、後悔が胸にわだかまっているので、ひとまず、気持の整理を。


女性の書く作品が苦手(嫌い)だとはすでに何度か述べたことですが、それは女性が書くから嫌いなのではなくて、ある種の不愉快さは女性が書いたものからしか生まれていない経験上の事実が、わたしにそう言わせているのです。女性が書いたもので好きな作品があれば、それはそれは大歓迎なのです。もし同じだけの感情を得られるなら、男性が書いた作品より、女性が書いた作品をわたしは大切に思うに違いありません。なぜならその作品の存在によって「女性が書くから嫌いなのではない」というわたしの言い分を証明できるし、なにより、自分の性を少しは好きになれるかもしれないからです。しかし、未だ出会えません。ことごとく、ない。


昨日、『鳥類学者のファンタジー』の感想に書かなかったのですが、わたしは奥泉光という作者をまったく知りませんでした。本の表紙絵とタイトルから、勝手に男性作家だと思って読み始めたのですが、主人公が女性だったのと、語り口の伸び伸びとした朗らかさ(女性が書く旅行エッセイのような)から、「あれ、もしかしたらこれは女性作家なのか?」との疑問を抱きました。「光」さんなら女性の可能性もあるではないか! もしそうだとしたら、上述の事実を覆してくれる作品に出会えたかもしれないわけで、ちょっとドキドキもしたのです。でも残念ながら光さんは男性でした。



さて、『子どもたちは夜と遊ぶ』です。



なにも「うざい」とか「気持ち悪い」などと罵倒することはなかったなと後悔いたします。しかし、女性作家の作品が好きになれない経験がまたひとつ積み上がろうとしている事実に変わりはありません。


何がそんなに気に食わないのか。


まず、主人公の月子ちゃんを好きになれません。そして、好きじゃなくなった瞬間というのをはっきり自覚しています。この一文です。


やるだけやったら後悔しない狐塚が、月子は好きだ。


わたしはカチンときました。やるだけやったら後悔しない彼が好きとは、いったいぜんたい彼の何を好きだというのか、わたしにはちっともわかりません。やるだけやって後悔したら好きじゃないのでしょうか。がっかりするのでしょうか。狐塚君らしくない、とか言うのでしょうか。あほくさい。誰かを好きだと宣言するのに、そんなちっぽけな表現があってたまるか、とわたしは頭にきたわけです。やるだけやったら後悔しない狐塚君が好きな月子ちゃんの、狐塚君に対する愛情なんてたかが知れています。わたしに言わせれば、好きじゃないのと大差ありません。「やるだけやったら後悔しない狐塚が、月子は好きだ」という一文は、「やるだけやったら後悔しない狐塚が好きな月子という女の子は良い子ですよね」としかわたしには聞えません。月子ちゃんが狐塚君を好きな気持ちが、これっぽっちもわたしには伝わりません。


と思ったのが28ページ目だったのは、とても残念です。先は長いのです。文句ばかり言って(書いて)ないで、続きを読みます。