『子どもたちは夜と遊ぶ(上・下)』辻村深月


釈然としません。


誤解を恐れずに言えば、夢中になって読みました。「誤解」と付け加えるのは、おもしろくて夢中になったのではなくて、はやく結末にたどり着きたいがために集中したからです。こういう言い方は「つまらなかった」というようにも聞えるかもしれないけれど、つまらないとは思いませんでした。上巻の28ページ目で憤ったことは捨てていいようにも思いました。特に、月子ちゃん視点ではなくて、木村浅葱視点のページが増えると、女性作家にだけ感じる嫌悪感はほとんどなくなっていきました。だから女性作家云々の話は、もうここでは必要なさそうです。ただ、釈然としないのです。


以降、ネタバレおかまいなしに書きます。


木村浅葱(キムラアサギ)君は、幼少期に虐待にあっています。それが原因で人格が壊れかかっています。あるいは、壊れています。その浅葱君が殺人を犯し、浅葱君が犯人であることに周囲がたどり着く、大筋ではそういう話です。浅葱君が幼い頃に受けた傷は、身体の傷も、心の傷も、とても酷いものです。その酷さは具体的な事柄をもって描かれているけれど、書き方に過剰な印象も受けなかった(酷さ自体は過剰です。)ので、わたしは浅葱君の視点で語られる部分には、あまり違和感を感じませんでした。浅葱君は本当に酷い目にあった。


その浅葱君が人を殺します。ひとりじゃありません。複数の人に手をかけます。見知らぬ人にも、大切な人にも。なぜならそれよりも大切なものが彼にはあったからです。それが『i』という人物。これは浅葱君が犯人であることにたどり着くと同時に『i』の正体を突き止める話でもあります。


わたしが釈然としないのは、たとえば、浅葱君の心情に起因する背景(主に幼少の頃の記憶)というのは克明に、ある意味では高潔に、触れたら割れて武器になるガラスのような危うさで描かれていると思うのですが、そこまで人の心の奥深くに立ち入ることをしているのに、その周囲をかためているものが、なんていうか、チープに感じられるのです。浅葱君の中に作者が創造した過去と記憶、今そこにある精神。それに対して、周りの人間の精神は幼すぎる(というかチープである)ようにわたしには感じられました。あと『i』の正体もね。というよりも、『i』の正体がそうであるならば、なおさら、チープだと思うのです。二重人格という解答を用意するなら、周りの傷ももっとしっかり用意されていなければ、とわたしは思う。ここに描かれている「周り」に浅葱君を合わせようと思ったら、作者は彼の精神に、それほど深く立ち入るべきではなかったと、わたしには感じられます。


物語は、孤独だった浅葱君に理解者ができたように描かれているけれど、そして浅葱君自身、彼らに心を開いたように描かれているけれど、わたには、浅葱君の孤独を理解した人は、この物語の中にひとりも見つけられませんでした。