『猫を抱いて象と泳ぐ』小川洋子


vol.1の感想文にお友達からコメントをもらって、わたしは大事なことを書いていなかったことに気がつきました。

ミイラの身に起きたことを知ったとき、わたしは愕然としました。それから吐き気がしました。なんてひどい小説なのだと思いました。なんてことをしてくれたんだと。わたしは泣きたかったけれど、ここにいたるまでなにひとつ気がつくことができなかった自分の愚かさに呆然として涙を流すこともできませんでした。なにもかもが最低に思えました。わたしは布団に入ってとにかく暗い気分の底へ自分を眠り込ませ、しかしそれはなんの役にもたたず、翌朝目覚めたら多くの場合がそうであるように、悲しみは怒りに変わっていました。もしもこの残酷な出来事が、この物語にただ悲しみを添えるだけのために描かれたのだとしたら、わたしはこの本を真ん中から引き裂いて捨ててやると思いました。わたしはとにかく救いを求めてページを先へ進めました。


第12章についてわたしは上の感想文を書いているのですが、で、結果どうだったのかということについて答えていませんでした。でもそれはわたしが『猫を抱いて象と泳ぐ』の感想文を書く上で重要なことで(お友達のコメントを読んでなおさらそうなりました)、一度完成させたはずの感想文ではあったけれど、やはりそのことについても書いておきたいと思います。


ミイラの身に起きた残酷な出来事が、もしもこの物語に悲しみを添えるためだけ、あるいは物語を美しくするためだけに描かれたのだとしたら、わたしはこの本を真ん中から引き裂いて捨ててやる、と書きました。本当にそう思ったのです。しかしそうではないことをわたしは心の底から願いました。それはお友達が大好きな本だから、ではありません。お友達にすすめてもらったからでもありません。本がもったいないからでもありません。物語とはそうであってほしいと思うからです。物語は、たとえば誰かの心にお化粧を重ねるのではなく、誰かの心からお化粧を丁寧に、やさしく、拭きとってくれるものであってほしいと思うのです。世の中はそういう物語であふれてほしいと思うのです。物語に花を添えるためだけに用意された悲劇は、もう肌に固着して洗い落とせなくなったファンデーションのように、わたしには邪魔なのです。だからわたしは強く願いました。この残酷な悲劇が、飾りのためだけの造花ではないことを。その証拠が欲しくて欲しくて、ほとんどそれだけを求めて先を読んだために、14章以降に対しての感想文をあまり書くことができなかったのです。


物語を最後まで読んで、わたしは「あの出来事」を物語の飾りだとは思いませんでした。悲しみを添えて、物語を美しくするための道具として描かれたに過ぎない、とは思いませんでした。だから小説は引き裂かれずに、今もわたしの手元にあります。先のコメントでお友達が書いてくれたように、そして彼女の言葉をそのまま借りることを許してもらえるなら、わたしも「作者にとっては、この物語にどうしても必要な場面だったのだろうな」と思いました。ただ、どうして必要だったのかまでは、わからなかったのです。14章以降はそれを知りたくて、とにかくそれだけを探して読んでいたように思いますが、いくつかの可能性は見つけられるものの、解答は得られませんでした。


物語の中で「ひどい現実」を飾りのためだけに用意した小説を読んだとき、わたしはその小説を軽蔑するし、怒りを抑えるのに一苦労するし、本当に吐き気がするのです。いったいなんのために小説を書くのだ。小説という美しい衣を纏ってひどい現実を着飾っているだけじゃないかと思うのです。


ここでわたしは同じ「吐き気」といういささか強い言葉を使っているけれど、そういう小説(として売られているもの)に対して覚える吐き気と、『猫を抱いて象と泳ぐ』に対して生じた吐き気とが異なるものであることは、きちんと言っておかなければなりません。


前者に対してのそれは、その小説が存在することへの感情です。こんなこと言っても仕方ないのですが、むかつくのです。そんなものが書かれたことや、そんなものが売られていることや、そんなものが売れていることが。吐き気以外になにを思えばいいのかわからないくらいです。


一方、『猫を抱いて象と泳ぐ』の第12章でわたしの胸を苛んだ感情は、このやさしい物語の中で起きた「ひどい現実」に対して生じたものです。こんなにもやさしく愛しい静かな世界が侵されてしまったことに対しての怒りです。どこに行っても、どこまで行っても、どこでどんな物語を紡いでも、わたしたちの前にはいつもひどい現実が待ち受けているのだということへの悲しみです。その意味で、わたしにとってこの物語には救いがないのです。唯一の救いがあるとしたらそれは「死」なのです。美しいと思うこの物語を「好きだとは言いたくない」のは、そこに反発したいのです。だって、死んだら救われるにきまってるじゃないですか。わたしは物語にはいつも、生の中に救いを見つけて欲しいのです。救いを死に求めて欲しくないのです。できるかぎり、そうであってほしいと思うのです。


しつこいけどもう一回言います。わたしはミイラを助けたかった。どーしても、助けたかったんです。でもできなかった。くそったれ。





というわけで。美しい物語への感想を汚い言葉で終えることには若干の抵抗を覚えますが、以上をわたしの『猫を抱いて象と泳ぐ』の感想文にしたいと思います。




P.S.
まゆるん、今度「きらきら星変奏曲」を一緒に聴きたいです。そしてまた、語りましょう。