『猫を抱いて象と泳ぐ』小川洋子


やっと週末です。やっとおもいっきり感想文が書けます。『猫を抱いて象と泳ぐ』。本の感想文の前にこの本を紹介してくれたわたしのお友達を紹介します。


まゆるんです。


わたしはアライグマですが、まゆるんはユキウサギです。北海道の寒い大地でたくましく育ち、ふわふわのからだで雪の上を駆けめぐり、ぽかぽかの陽だまりの中でお昼寝と読書をする愛らしいユキウサギです。経験上、わたしは女性が書いた作品があまり得意ではないのですが、『猫を抱いて象と泳ぐ』は、まゆるんが「女性が書いた小説でこれは本当に本当に素晴らしい!最初から最後まで文句のつけようがないと思えた作品」として紹介してくれました。読んだよ、まゆるん。ありったけの想いをこめて、感想文を書きます。


とは言うものの、いざ書こうとすると書きたいことの断片が続々と思い浮かぶだけで、どうにもまとまった形になってくれないので、この際、その断片に寄り沿ってしまおうと思います。この作品は全18章から成っているのですが、わたしはこの章立てがとてもいいなぁと思いました。まるでモーツァルトの「きらきら星変奏曲」のように美しいと思いました。なので、その各章に敬意を表して、章ごとの感想文を書こうと思います。全18章。書けるかしら。。途中で飛ばしたら、見逃してください。ほら、ピアノの発表会で「きらきら星変奏曲」を演奏してる子が緊張で1章くらい弾き忘れちゃったって、観客は誰も気がつかないし、気がついても最後まで上手に弾けたら拍手してくれるじゃないですか。それと同じ感じでよろしくお願いします。では、そろそろ開演の時間です。



小川洋子さん『猫を抱いて象と泳ぐ』



<入場>
個人的な見解ですが、舞台への入場シーンって大切ですよね。ピアノの前に座るまでの挙措も演奏の一部みたいなところってあるじゃないですか。この小説の入場にはチェス盤が描かれています。チェス盤の上には白黒あわせて32個の駒が行儀よく並んでいます。あわせて、彼らへの簡単な説明書きが載っているのですが、これから始まる演奏の香りをすでにここで匂わせることに成功していると思います。


<第1章>
わたしはこの1章が最初、あまり好きではありませんでした。なんだ、コドモの夢物語につき合わされるのか? という気分になったのです。しかしそれは、わたしの間違いでした。わたしは自分の感想が誤りだったとはそうそう簡単には認めませんが(どちらかというと自分の感想が的確だと言うために、ありとあらゆる証拠を探しだそうとするタイプです)、こればっかりはすみませんでしたと謝るほかありません。その後に続く物語の始まりとして、どれほどこの1章が大切で、輝かしいか。読めばそう認めざるを得ません。インディラとミイラ。これは少年アリョーヒンとチェスの物語ですが、アリョーヒンとふたりの出会いは、チェスとの出会いよりも貴重なものだったのではないかとわたしは思うくらいです。


<第2章>
少年はチェスと出会って、チェスのすべてを教わることになるマスターに出会います。「慌てるな、坊や」。わたしはまだ懐疑的です。物語への信頼を確認することができません。


<第3章>
少年は家具職人であるおじいちゃんにベッドの天井にペンキでチェッカー模様の升目を描いてもらいます。そして少年はそのベッドに横たわりながら、チェスについて、毎晩ミイラに話して聞かせるのです。わたしがこの物語に対して最初に心を開いたのは、このシーンだったように思います。このシーンを読んで、わたしはまゆるんのことを思いました。この作品が「最初から最後まで文句のつけようがなく素晴らしい」と言ったまゆるんがこのシーンを読んでいるときのことを思いました。このシーンを読んで、温まっていくのであろうまゆるんの心を思って、わたしの心もじんわりと温まりました。第3章はわたしにとってはまゆるんとの物語です。


<第4章>
少年はマスターに初めて勝ち、偉大なプレーヤーであるアレクサンドル・アリョーヒンを知ります。


<第5章>
格段に腕を上げつつある少年は、マスターの勧めであるチェス倶楽部の会員になるための試験を受けに行きます。マスター以外のプレーヤーとチェスをするのです。そこで彼は観客の目に、アレクサンドル・アリョーヒンの姿を自分の背中に映し出すことになるのです。


<第6章>
物語が反転します。これはチェスの「物語」ではないのだという予感です。きっと、少年の「物語」でもない。これは「ひどい現実の話」だと、少なくともわたしはそう予感します。マスターが死んでしまいます。


<第7章>
マスターを失うということは、とりもなおさず少年にとってはチェスの場を失うということです。実質的にも、精神的にも。しかし少年はチェスそのものを失いはしませんでした。少年のところにチェス倶楽部の事務局長なる人物がやってきて、わが倶楽部でチェスをしないかという話を持ちかけたとき、少年がその仕事を引き受けたのは、だからだったのだろうとわたしは思います。彼にとって本当に必要な場所はもう失われてしまったのです。取り戻すことはできません。けれど彼自身は失われていません。彼はそこにいなければいけません。そういうとき人は新たな場所に行くしかありません。そして新たな場所に行くとき、何か手離せないものがあるとしたら、人はそれ以外のものはすべて失っても、それだけは手にしていられる場所に行くしかないのです。そうしてチェスプレーヤー「リトル・アリョーヒン」は誕生したのだと、わたしは読みました。


<第8章>
第1章からずっと肌を撫でていたそよ風が、ここにきて実態を持ちます。リトル・アリョーヒンはミイラと出会います。彼の対局を記録する記録係として彼女はやってきます。ミイラ。この小説を読んでわたしは彼女のことを好きとか嫌いという感情を最後までほとんど抱かなかったのですが、でも、すごく特別な存在です。わたしは彼女がこの小説の中で何をして、どんなことを言っていたか、すでにほとんど思い出せないのですが、物語を最後まで読み終わったときにわたしのまぶたの裏に残ったのは、彼女の雰囲気でした。


<第9章>
チェス倶楽部での「リトル・アリョーヒン」のいくつかのゲームと、ゲームを通してより親密につながっていく少年とミイラの様子が描かれます。物語の中で一番幸せな時間だと思います。


<第10章>
「不吉な予兆はとある雨の晩、」・・・という一文で始まる第10章。少年が操作していた人形「リトル・アリョーヒン」が壊されてしまいます。修理に出している間に少年とミイラに与えられた新しい仕事は、人間が駒の代わりをする「人間チェス」でした。わたしはこの時点で何かを予感するべきだったのですが、なにも、感じ取ることができませんでした。わたしはリトル・アリョーヒンの「物語」を信じ始めていたのです。6章で予感した「ひどい現実」をおそらくミイラの登場で、もう忘れていたのです。わたしはのんき過ぎました。わたしはそのことを読み終わった今、とても悔やんでいます。


<第11章>
人間チェスの駒の役をやるはずだった女の人がひとり、病気で来られなくなってしまい、急遽ミイラがその代役を務めることになりました。ミイラは少年の側の駒、少年の味方です。相手は下品な男でしたが、だからこそアリョーヒンは「この対局には必ず勝たなければならない」と思います。「相手を打ちのめすためではなく、相手の吐き出す毒を浄化するために、どうしても勝ちが必要なのだ」と。そして彼は勝ちます。ポーンという名のミイラを「尊い犠牲の駒」とし、「その犠牲をが根となり、思いも寄らない鮮やかな花を咲かせるような勝ち方」をするのです。ゲームが終わったあと、彼はミイラに会おうとしますが、会わせてもらうことができません。ミイラの身に何が起こったのか、少年にはわかりません。わたしもわからなかったので、ページを先へ進めます。


<第12章>
わたしは本当にのんき過ぎたのです。ミイラの身に起きたことを知ったとき、わたしは愕然としました。それから吐き気がしました。なんてひどい小説なのだと思いました。なんてことをしてくれたんだと。わたしは泣きたかったけれど、ここにいたるまでなにひとつ気がつくことができなかった自分の愚かさに呆然として涙を流すこともできませんでした。なにもかもが最低に思えました。わたしは布団に入ってとにかく暗い気分の底へ自分を眠り込ませ、しかしそれはなんの役にもたたず、翌朝目覚めたら多くの場合がそうであるように、悲しみは怒りに変わっていました。もしもこの残酷な出来事が、この物語にただ悲しみを添えるだけのために描かれたのだとしたら、わたしはこの本を真ん中から引き裂いて捨ててやると思いました。わたしはとにかく救いを求めてページを先へ進めました。


<第13章>
少年は倶楽部を出て、次の新しい場所へと向います。もちろんその手にはチェスを持って。




あとは、というのは、第14章から先のことですが、それに対する感想をわたしはあまり書くことができません。次なる新しい場所(それは現役を引退したチェスプレーヤーが集まる老人専用マンション)で、そこに住む人たちとチェスを始めたアリョーヒンは、結果的にはそこで彼のチェスを、つまりは彼の存在を、後世に残すことになります。またそこでは、ミイラとの静かな、それは本当に静かな、文通が始まり、そして終わりを告げます。彼が「ビショップの奇跡」と呼ばれる棋譜を残すこと、そしてミイラとの静かな言葉を交わすこと、そのふたつをやさしく見守るようにして過ぎ行く周りの時間。第14章以降の物語はそうして語られていきます。


わたしはこの物語をきれいだなと思います。小川洋子が高い評価を受けることにも疑問は持ちません。最初から最後まで透き通った水の上をひたひたと裸足で歩いていくような感覚で読める作品というのはなかなかないですし、おまけにこの作品は、歩くときに落としていく波紋で水の色が移り変わっていくような心持ちがします。まさに「きらきら星変奏曲」です。前のメロディーに聴いたときの気持ちが、次のメロディーに反響しているような気がするのです。そういう作品をすばらしいといわずに、いったい何を褒めればいいのでしょう。でも「好きか」と聞かれたら、わたしは「好きじゃない」と答えたいのです。わたしには何もかもが悲しすぎます。「美しい物語」だというよりも前に「ひどい現実」であることのほうが、わたしには強烈だったのです。わたしには美しいということよりも救われることのほうが大事だし、諦めるということよりも涙を流すことのほうが大事です。この物語は救われないがために美しく、美しくあるがためにすべてを受け入れ、だからもう涙は流れないのです。わたしにはそういう物語でした。


ミイラを、わたしは助けたかった。