ミステリー年間25冊


今年はミステリーを読むと決めて、100冊の読破を目指しているところではありますが、当初の目標達成にははやくも暗雲がたちこめています。「ミステリーを大好きになる」という目標です。


前にわたしは、自分が小説に求めることは「文章力」だと言いました。文章力。ずいぶん大雑把な言い方です。文章力と一口に言っても、おそらくいろいろあります。描写が巧いとか、会話がおもしろいとか、キャラクターの造形が魅力的とか、リズム感があるとか。とかとか。いろんな「文章力」があると思います。でもわたしがここで言う文章力はそのどれでもなく、すべてでもなく、まったく別のことです。わたしの言う文章力は「そこにある物語がどんなにか複雑で、どんなにか不思議で、どんなにか奇妙で、どんなにか突飛で、どんなにか悲惨で、どんなにか幸せで、どんなにか単純で、どんなにか奇抜で、要するに、どんなにか現実離れしていようとも、あるいは、どこまでも現実的であろうとも、すべてが現実のこととして読めてしまう力」のことです。描写が巧いどうのこうのというのは、読者としてのわたしにとっては些細なことです。もちろんそれらの技術の総体がわたしの言う「文章力」を作り上げているのかもしれませんが、でも「すべてが現実のこととして読めてしまう文章」にはそれらとはまた別の力が働いているように感じるのです。その別の力があることまで含めて「文章が巧い」というのだと言われたら、まあ、それはそういうことになってしまうんですけど。


わたしが夏目漱石を好きなのは、漱石の文章が圧倒的だからです。他の誰の文章よりも、そこにある文章が圧倒的に現実として読めるし、見えるし、聞えるし、感じられるし、触れられるのです。日本語の奇跡です。と、漱石を褒めだすとキリがないので今回はこれくらいでやめておきます。またいつかおもいっきり褒めます。


さて、ミステリー年間です。


ミステリーを大好きになれたらいいなと思って始めたのですが、いかんせん上記のようなわけで、ミステリー本来の核であろう「犯人」や「謎の真相」にはそもそもあまり関心が持てないため、その魅力を楽しむには限界があります。それでもシャーロック・ホームズが大好きなのはなんでだろうと思ったら、やっぱりそれも犯人や謎の真相に興味を持って読めるから(その結果、驚きがあるから)ではなくて、あの奇妙な物語がどういうわけか最初から最後まで現実のこととして読めてしまうから楽しいのです。あんな無茶苦茶、あり得ないだろうに。物語というのはどんなに「ありそう」でも、現実のこととして手にできないものと、どんなに「あり得なさそう」でも、現実のこととしていつのまにか手にしてしまっているものがあります。それくらい物語に寄り添えることが、わたしにとっての文章力です。


ミステリーというジャンルには、今のところそういうのがあんまり見当たりません。その理由をあれやこれやと考えてみて行き当たったのは、ミステリー作品の多くはストーリー(トリックや謎解き)が先に立っているからではなかろうか、ということです。事件があって、謎が生まれて、謎解きの過程があって、解決がある。その上に「人」が乗っかる。多くのミステリー作品で、わたしはそう感じるのです。これは「人が後だ」と。


でも物語が「現実のものとして読める」ためには、わたしは「人」が先に立ってないと無理じゃないかと思うのです。だって「人」がいないところに物語は生まれないから。だから「物語に沿って人が動く」のではなくて、「そこに人がいるから物語が生まれていく」、そういう小説じゃないと、たぶん、好きになるのは難しいのだろうなという気がします。


そういうわけで、鋭意探索です。ミステリー年間はまだまだ続きます。