『ライ麦畑でつかまえて』 J.D.サリンジャー


読み終えたときの幸福感だけが、唯一正確に、この小説へのわたしの感想を語っていると思います。今わたしはすばらしい小説を手にしているという幸福感です。ふわふわした心持ちでした。

たとえば先日読んだ村上春樹の『ノルウェイの森』ほど物語に寄り添うことはできませんでした。そして読み終えたばかりの今でもすでに、物語はもうずっと遠くに行ってしまって、ぼんやりとした輪郭しかわたしには残っていません。でもこの「ぼんやりとした輪郭」というのが、この物語のすべてではないかという気が今のわたしにはします。ぼんやりとした輪郭がくすんでいくのではなく、その輪郭に手を伸ばそうとすればするほど、透き通っていくような感覚があります。陳腐な日本語になってしまうけれど、まったく、いい小説というのはすばらしいものです。文学史的にはなんの関係もないのかあるのかわからないのですが、わたしにはこの小説と夏目漱石の『坊っちゃん』が重なりました。坊っちゃんのほうが舞台をイメージしやすいせいか、絵としての輪郭は格段にはっきりしていますが。『ノルウェイの森』は4回読んでようやく自分の物語として読むことができたので、『ライ麦畑でつかまえて』ももう何度かは読んでみたいと思います。ちなみに今回は2回目でした。1回目に読んだときのことをほとんど何にも覚えていなくて、どうせ途中で放り出したのだろうと思っていたら、293ページまで1回目のわたしが至る箇所に引いた線が残っていたので、おそらく最後まで読んだのでしょう。いやはや。3回目は近々、村上春樹訳を読んでみようと思っています。


わたしの大好きな箇所をふたつ。

僕たちが一度もいちゃついたり、きわどいことをしたりしなかったからといって、彼女のことを氷の女とかなんとか、そんなふうには考えてもらいたくないね。事実、違うんだから。たとえば僕は、彼女とはいつだって手をつないでたんだ。手をつなぐぐらい、なんでもないように聞えるだろうさ。ところが彼女は、手をつなぐのにすばらしい相手なんだ。たいていの女の子は、手を握り合うと、その手が死んでしまう。さもなきゃ、まるでこっちを退屈さしちゃいけないとでも思ってるみたいに、しょっちゅうその手を動かしてなきゃいけないように考える。ジェーンは違うんだ。映画館やなんかに入ると、さっそく僕たちは手を握り合う。そして映画が終わるまで放さないんだけど、それでいて、姿勢を変えたりとかなんとか、大騒ぎするわけじゃないんだ。相手がジェーンだと、こっちの手が汗ばんでるかどうかさえ、気にならないんだな。あるのはただ幸福感だけなんだ。ほんとなんだ。(125頁-126頁)


ふたつめは物語のクライマックス(と、わたしは思っているのだけれど)。アントリーニ先生がホールデンに言って聞かせるこのセリフ。

「そうか――ヴィンスン先生だったな。いったんそのヴィンスン先生のたぐいを通りぬけてしまえばだ、その後は、君の胸にずっとずっとぴったり来るような知識に、どんどん近づいて行くことになる――もっとも、君のほうでそれを望み、それを期待し、それを待ち受ける心構えが必要だよ。何よりもまず、君は、人間の行為に困惑し、驚愕し、はげしい嫌悪さえ感じたのは、君が最初ではないということを知るだろう。その点では君は決して孤独じゃない、それを知って君は感動し、鼓舞されると思うんだ。今の君とちょうど同じように、道徳的な、また精神的な悩みに苦しんだ人間はいっぱいいたんだから。幸いなことに、その中の何人かが、自分の悩みの記録を残してくれた。君はそこから学ぶことができる――君がもしその気になればだけど。そして、もし君に他に与える何かがあるならば、将来、それとちょうど同じように、今度はほかの誰かが、君から何かを学ぶだろう、これは美しい相互援助というものじゃないか。こいつは教育じゃない。歴史だよ。詩だよ」(295頁)


ヴィンスン先生のたぐいを通りぬけて、わたしの胸にずっとずっとぴったりくるような知識のひとつは、ここにあります。ヴィンスン先生のたぐいさん、さようなら。