『鴉』麻耶雄嵩


真剣に物語る、ということを、たぶん麻耶雄嵩は意図的に避けている(嫌っている)のではないかと、まだ2作品しか読んでいませんが、そう思います。真摯な読者は物語を真面目に読み進め、途中で、作者からのあざけりの視線を感じることでしょう。寛大な、あるいは、自分も若干ねじまがっている読者なら受け入れられるかもしれませんが、ただひたすらに真面目で純粋な読者は、何これ。と思い、もう麻耶雄嵩の本は手に取らないかもしれません。ちなみにどちらかというと、わたしは前者でした。残念ながら。この作者のあざけりの視線は嫌いじゃありません。いや、実際目の前にいたらむかつくかもしれません。でも、物語から感じ取る分には読者として光栄だと思うこともできます。「あざけり」だなんて、作者にそんなつもりがなかったらずいぶん失礼な言い方ですけれど。


ひとつひとつのプロセスをとても楽しく読みました。加えて、『鴉』については、わたしは登場人物の名前がいちいち好きです。名前だけで語られるものってあると思うけれど、ここでは全員の名前が物語の一部として、とてもうまく機能しているように思います。もっとも気に入らない名前が主人公「メルカトル鮎」ですが、これもまた、気に入らない、ということ自体に意味があるので、やはり機能の一部として成功しています。


しかし、最後はどうなのでしょうか。わたしとしては物語の中で提示された疑問にすべて答えてもらったとは思えないのですが。
実際、回答は煙に巻かれてしまったのかもしれません。作者は答えを用意することをさぼったのかもしれません。でも読書中に作者からのあざけりの視線にさらされ続けたわたしは「答えはどこかに隠されているのに自分が見つけられなかっただけかもしれない」と、作者への疑問を自分に返してしまうのです。


こうなるともう、作者の勝ちですね。悔しいですが。