『グレート・ギャツビー』スコット・フィッツジェラルド


美しい日本語だなと思う小説にはこれまでにも(その数は決して多くはないけれど)いくつか出会ったけれど、その日本語よりも、あるいはその日本語ではなく、そこにある情景や状況が美しいという小説はちょっと他に思いつきません。


ある場面がそこにあって、その場面を描いた日本語が美しいということと、場面そのものが美しいということはやはり違います。しかし違うのだということはわかるけれど、その境界線を説明することができません。だって、どちらもわたしが手にしているのは「言葉」であって「場面」ではないのです。美しい言葉から「場面ではなく言葉が美しい」(言葉によって場面がより美しく変装している)と思うことと、美しい言葉から「これは言葉ではなく場面が美しいのだ」と思うことの、その判断の違いはどこに起因しているのでしょうか。自分で感じることなのに、さっぱり検討もつきません。けれど『グレート・ギャツビー』が後者であることは、わたしにとっては確かな事実です。言葉の美しさが場面の美しさを凌駕しているのではなく、言葉はただただ場面の美しさの前にひれ伏しているだけなのです。いったい「何が」わたしにそう思わせるのかということについては、やはりまったくわからないのだけれど。


しかしわたしはこれを原文ではなく訳語で読んでいるわけだから、上に書いたことも原文においては意味をなさないのかもしれません。けれど、この小説の美しさを原文で味わうことができたなら、いったいどれほど楽しいのだろうかと、その境地に憧れずにはいられません。「オールド・スポート」がその音としてだけでなく、内実ともに「オールド・スポート」としてわたしの胸に響いてくる、その瞬間の喜びに憧れずにはいられません。しかしそのためにじゃあわたしはいったい何をすればいいのだろうかと考えますがやはり検討もつかないので、また別の本を読むことにします。