『月と六ペンス』モーム


ポール・オースターの『ムーン・パレス』に、洞窟の中で絵を書くシーンがあるのですが、この作品にも、洞窟でこそありませんが、孤独な中で絵を描くシーンがあります。自分の暮している部屋の壁一面に絵具を塗りつけるのです。

『ムーン・パレス』では、絵を描くシーンは物語の中盤で出てきましたが、『月と六ペンス』では物語の終盤において、まるでそこにいたるまでに読者が感じたすべての秘密の答えを曝け出すかのようなエネルギーとともに発露します。まさにクライマックスと言っていいのだろうと思います。

この「絵を描く」というシーンが、わたしはとても好きです。わたしにとって完成された絵はたぶんどうでもよくて(絵を読み解く力が乏しいせいですが)、その絵が完成に至るまでの画家と絵との対話こそが、もっとも重要な「絵」であり「物語」ではないかという気がします。小説の中で、この「物語」を描けるというのは、すごく力の要することだと感じます。だから「絵を描く物語」が書かれている小説は、何かしらわたしの記憶にひっかかることが多く、『月と六ペンス』も例外ではありませんでした。なんにも覚えてなくても「かっこよかった」という印象だけ、ずっと残るのです。そして何年かのちに「また読んでみよう」と思う。



話は違いますが、わたしはずいぶん長いこと、自分の中心(「核」のようなもの)は自分の中にあると思っていました。だからあまり見たくもない自分のことをじっと凝視して、掘り下げて、深く潜って、苦しくなって、這い出てきて、また戻る、というようなことを繰り返していました。でも最近になって、ふと、自分の中心というのは、自分の中にではなく、自分の外側にあるのではないかという意見を持つようになりました。
このことについて語ろうとするとまた長くなるし、まだ意見としてもきちんとまとまっていないのでやめますが、この「外」という発想は、わたしにとっての新しい発見でした。



「絵を描く物語」にわたしが魅かれるのは、「絵を描く」という行為は、自己の中心を外に見出した人たちの戦いだからではないかという気がします。もちろんそうではない「絵」もいっぱいありそうだけれど、少なくともわたしが魅かれる「絵を描く物語」は、そういう絵であるような気がします。まあ、気のせいの、こじつけかもしれません。

『月と六ペンス』で絵を描いたチャールズ・ストリックランドは、わたしが作品全体から感じた限り、やはり自分の中心を世界の中に見出そうとしたして戦った人のように思います。