『夏と冬の奏鳴曲』麻耶雄嵩


さて、何から書きましょうか。麻耶雄嵩の『夏と冬の奏鳴曲』。しかしこの『夏と冬の奏鳴曲(ソナタ)』という題名は、めちゃくちゃにいいですね。作中に「春と秋の奏鳴曲」が出てきたときには、胸が高揚しました。物語の内容に沿っているだけでなく、全体の雰囲気や意図を考え合わせても、すごくいいと思います。素敵です。


読み始めてほどなくは、文章がやけに平凡に感じられました。前に読んだ『鴉』と比べると余計な飾りが多くて、淡々としたもの静かさの中に潜んでいた(と思われる)あの、高みから読者を見下ろしたような視線を持ち得ていないように思いました。でも先へ進むにつれて、気にならなくなりました。それは物語の展開に作者の文章に対する(必要以上の)丁寧さが追いつかなくなったという見方もできるし、ただただ余分なことが自然に削ぎ落とされていったという見方もできるのではないかと思います。もしかすると上に述べたことはまったくの見当違いかもしれません。でも、わたしにはそのように感じられました。

しかしどちらにしても、麻耶雄嵩という人の作品に対して、文章を云々するのはあまり重要ではないように思います。麻耶雄嵩の作品に対して何か言おうと思ったとき、わたしにとって重要だと感じられるのは、「疑いを持つ」ということです。それはまさにミステリーのただ中に自分の思考を、意識的であれ無意識的であれ、さらわれるということを意味します。ミステリーの外ではなく、中で、何かを言うということです。文章を云々するのは外にいれば重要だけれど、中にいたら瑣末なことです。


ミステリー作品というのは、ふつう、ある問題が提示されて解決へと導かれる一連の流れを楽しませるものだと思うのですが、麻耶雄嵩の作品は問題を提示したあと、その問題をまたさらに別の大きな問題で包み込み、その問題をまたさらに大きな問題で包み込み、それをまたさらに・・・というふうに雪だるま式にどんどん問題を大きく膨らませていって、そして最後に用意した「解」で、その雪だるまになった問題をまるごと全部のみこんでしまうのです。いいですか、問題にひとつひとつ解答を与えてくれるわけではないのです。これはこう、それはこっち、あれはこうだった、というようにすべて解決されて、あーすっきり爽快。とはならないのです。雪だるまになった問題をまるごとのみこんで、はて、どこに問題があったのだ?みたいなことをするのです。なんて嫌なやつ!問題が問題だったのかどうかさえ問題にしてしまうというこの後味の悪さ! 700ページも読んだのに、何ひとつまともに答えてくれやしない!どうしてくれようか、こんちきしょう!読むんじゃなかった!


しかしこれが麻耶雄嵩の魅力だと言われたら、おっしゃるとおり。と頭を垂れるしかありません。だって読み終わったあともずっとミステリーの中にいられるんですもの。読み終わってからもずっとミステリーを楽しめる。これ以上のミステリーはないじゃない? ああ、なんという敗北感。


そういうわけなので、この作品の良さを認めないわけにはいかないのだけれど、でももし誰かに「好きな小説は何ですか」と聞いて、『夏と冬の奏鳴曲』と返ってきたら、わたしはその人にたぶん、疑いの眼差しを向けると思います。「夏と冬の奏鳴曲ぁ?」。ぜったい仲良くなれない、と思うと思う。ところがこれも、実際にはこの作品をオススメしてくれた人と超仲良しなので、わたしの自己ファイリングもやっぱり全然アテにならない。


わたしのミステリーはまだまだ続きます。