『パンドラの匣』太宰治


太宰治という人はとても人気のある作家だけれど、わたしは彼の作品を、あるいは、彼の作品を書いた彼のことを、手放しで敬愛することはどうにもできません。もちろん嫌いだなんて思わないけれど、なんというか「信用ならん」のです。


たとえば彼が今、どうも女性からの贈り物と思われる帯を腰に巻いているとします。彼の恋人が「どなたかからの戴き物ですか?」と尋ねると彼は「うむ。たいした人じゃない」とかなんとか答えて、でもたぶんずーっと、その帯を使い続けるのです。これがたとえば漱石だったら「うむ。たいした人じゃない」とかなんとか答えて、もうたぶん、その帯を腰に巻くことはないのです。そういう「信用」です。


太宰の作品に見える、彼の傷や、コンプレックスや、弱さや、繊細さや、自意識の過剰さや、それらに伴う自己嫌悪はすべて、避けることのできた精神ではなかっただろうかという疑いをわたしは捨てることができません。避けられなかった、逃れられなかったように描かれているけれど、それは結局のところ彼が望んだ方向ではないか、という疑念をわたしに抱かせるのです。だって帯はもう巻かなければいいのです。巻かなければいい帯をそのまま使い続けるのは、彼がそこから生じるであろう不幸のあれこれをやはり望んでいるからなのだと思います。


彼はそういう人生がよかったのです。そして言ってしまえば、そのニヒリズムが太宰の魅力であり、その危うさには当然引力があって、わたしもその引力に抗えない読者のひとりであることもまた事実です。しかし、だからといって無防備に引きずられていくわけにはいかないのです。なんといっても「信用ならん」のです。万全の警戒態勢で挑む必要のある魅力なのです。


すっかり前置きが長くなりました。そんな太宰の作品群の中にあって、という話がしたかったのです。『パンドラの匣』。新潮文庫版では表題作および『正義と微笑』があわせて収録されていますが、どちらも警戒を解いて読むことができます。とても楽しく、微笑ましい。夏目漱石の『坊っちゃん』を思い出すくらいの微笑ましさです。太宰を読んで、漱石の『坊っちゃん』を思い出すのです。びっくりしてしまいます。


太宰治は自分の暗さを見つめるよりも、他人の明るさを見つめることに長けているとわたしは思うのですが、どういうわけか、自分の暗さばかりを見つめた作品が多く、そしてそういうもののほうが有名で人気があります。まあ、いいんだけど。