『ちはやふる』1・2巻 末次由紀


ひさしぶりに、わたしの文章を書きます。すでに泣きそうですが、がんばって書きます。


コミックの感想文を書くのは初めてでしょうか。昔は人並みに読んだけれど、今は全然ですね。特に少女漫画はもうまったく読まなくなりました。自分で選んで買った最後の少女漫画は『NANA』だったと思います。それも途中(12・13巻くらい)で、つまらなくなってやめました。少年漫画はなんとか『ONEPIECE』だけ、遅れをとりながら単行本で買っています(今、わたしは48巻)。


少女漫画を買った最後は『NANA』だと言いましたが、それは「自分で選んだ」最後という意味で、わたしはその後に「人が選んだものを選んで」買っています。まどろっこしい言い方ですね。わかりやすく言い直すと、「自分だけの好みで選んだ少女漫画の最後は『NANA』」なのですが、その後、「わたしの好きな人が好きだと言っていた作品を読もう(あわよくばわたしも好きになろう)と思って買った作品が3つ」あります。『ハチミツとクローバー』『潔く柔く』そして『ちはやふる』です。


また登場しましたね。「わたしの好きな人」。思い返してみれば、わたしの恋愛人生は常に、自分が好きになった人と同じものを好きになろうとする人生でした。くだらないですかね。過去に好きだったものだけでなく、今自分が好きなものを考えてみても、自分だけの好みで選んで好きになったもののほうが少ないんじゃないかという気がします。わたしが、誰からの影響も受けずに、わたしだけの感性にひっかかって好きになったものなんて、たぶん、本当に少ないです。もちろん、影響を受けたのは最初のきっかけだけで、その後は本当に自分自身でも「これはわたしが好きになったものだ」と自信をもって言えるようになったものもあるのだとは思います。でも、わたしが、わたしの心をきっかけにして好きになったものは、驚くくらい少ないですね。嘆かわしいですけれど、しかたありません。しかたなくないかな。


ともかくわたしは「自分が好きになった人が好きだと言ったものを好きになる」という人生を送ってきました。


ところが、です。ある時期から、そうではなくなりました。わたしはその時期がいつであるかを明確に示すことができるのですが、22歳から24歳のときです。そのときにわたしは、2、3年という時間をかけて、自分の好き嫌いの境界線を強固に定めました。意図的にそうしたわけではありません。今から振り返ってみて、「ああ、そうか。わたしの好き嫌いの判断基準はあのときに設定されてしまったんだ」と思うだけです。でも不思議なくらい強固なものになりました。


かくしてuubは、自分で自分の好き嫌いを判断できる基準を持ち、その基準で好きなものを思う存分楽しむことができるようになりましたとさ。めでたしめでたし。となればよかったのですが、そうはなっていない、という話を今からするのです。


わたしは自分の好き嫌いの強固な境界線を手にしました。そのこと自体は悪いことだと思いません。いいことだとも思いません。とにもかくにも、わたしには物事を判断する自分なりのひとつの定点ができた、というだけのことです。その定点から見て、「好き」「嫌い」と言っています。


さて、「わたしの好きな人」です。わたしの恋愛人生は、「わたしの好きになった人が好きなものを好きになろうとする人生だった」と言いました。そしてこれは「好き嫌いの定点」を手にしてからも、ずっと変わってないんです。「好き嫌いの定点」がコツコツと積み上げられているのと並行して、ずっとそこにあったのです。わたしは「わたしの好きな人と同じものを好きになって、一緒に楽しみたい」と、いつもとても強く願うのです。
言うまでもありませんが、これは定点が一緒なら問題ありません。これ以上のハッピーはないと言ってもいいくらいです。でも、今現在、わたしの好きな人とわたしの定点は、違います。全然、違います。するとどういうことになるか。「わたしは、わたしの好きな人が好きなものを一緒に好きになってふたりでおもいっきり楽しみたいのに、まったくもって全然好きになれない。」ということになるのです。悲惨です。悲劇です。災難です。


ちはやふる』を読んで、わたしは、彼とわたしの定点の違いを突きつけられ、とても悲しくなりました。


わたしはこの漫画が好きではありません。1巻はとても楽しく読みました。ああ、今はこんな少女漫画があるんだ。すごくいい、と思いました。でも2巻になって、小学生だった主人公の女の子がいきなり高校生になって、それでもう、嫌になりました。その瞬間に、嫌になりました。中学の3年間が飛ばされてしまったことが嫌だったのです。


わたしにはこの飛ばされてしまった3年間に本当のドラマがあるような気がします。いや、違うな。わたしにとっては、その3年間がとても大事に思える、というだけのことですね。小学校を卒業したら、一緒に「かるた」をやっていた友達がいなくなって、中学では誰も一緒にかるたをやってくれなかった。「誰も仲間になってくれなかった3年間」が話の中から抜けてしまうのが、わたしには不満でした。中学の3年間です。同級生の誰も興味を示してくれないことをひとり胸に抱えて、その想いを持続させるのは困難な時期だと思うのです。とても寂しかっただろうと思うのです。だから小学生だった主人公の顔が高校生の顔になってページに現れたとき、どうしてそれを描かない?と、わたしは思ったのです。どうしてその苦しさを描かない? どうしてその壁を乗り越える力強さを描かない? と思ってしまったのです。思ってしまったが最後、もうこの先の話には、1巻と同じテンションでついていくことはできなくなっていました。


わたしは彼に言ったのです。「一番大事な箇所が抜けている。3年間ひとりで思いを抱える苦しさを、この漫画はわかっていない」と、そんなような言い方で抗議しました。そしたら彼は「そんな言い方しなくてもいいじゃん。わかってると思うよ、この漫画は」と言いました。それでわたしは思ったのです。「この作品の中の子たちの気持ちはわかって、わたしの気持ちはわかってもらえないのだ」と。


ああ、なんか滑稽ですね。わたしは滑稽だったんですね。


3巻から先は買っていません。


話は違いますが、だからわたしが、彼の学生時代に想いを馳せてしまうのは、わたしが好き嫌いの定点を作っていたあの時期に、彼に会いたかったと思うからなのでしょう。あの時期に会っていたら、今よりももっといろんなものを一緒に見て、わたしがひとりでコツコツと定めていった好き嫌いの定点を、彼と一緒につくることができたのに、と思ってしまいます。
やはりわたしは滑稽です。



思った通り、あまりいい感想文にはならなかったけれど、それでもひさしぶりに自分の文章が書けて、よかったです。