『生ける屍の死』山口雅也


一度死んだ人間が甦って、生きている人間と死んでいる人間が混在する世界。


「死者が甦る」と言われると、わたしは、死者の魂が生者の肉体を借りるというような現象か、あるいは亡霊やゾンビのような見た目が思い浮かぶのですが、この物語はどちらとも違っています。死者は「死体」としての特徴の現出は免れないものの、ある程度工夫すれば、生者と区別がつかず、まさに「生きた」状態でいられます。生きている人間と死んでいる人間がその境を失って、ダンボール箱に入ったみかんのように区別なく存在しているという物語世界。


「死んだ者が甦る」という不可能事はさることながら、「死者が死んだことを隠せるくらい生者と同じ生活を営める」という奇妙さに、この小説の新しさがあるのでしょう。死者と生者が混在する世界の構築に成功していることは、それだけでひとつの達成のように思います。


実際、この物語の探偵役を務めるのも死者です。物語の途中で死んでしまうのですね、かわいそうに。


そしてこの作品は、その「ひとつの達成」だけで終わっていないです。生者と死者が混在したために引き起こされた事件、状況、そこから生じた結果もきちんと整理されて、巧みに引き受けています。そう「巧み」だとわたしは感じる。それはおそらく、作中における「死」の概念が、適度の重量で描かれているからではないかという気がします。死者が甦る分だけ目減りする死の深刻さが、どこかできちんと、でもやはりそれは「死」なのだという認識をもって描かれる。


ところで、物語の終盤でこのような問いがあります。

普通殺人といったら、動機はどうであれ、被害者が二度と再び意思表示や行動ができないようにするのが目的なはずだ。ところが、いまの世の中はどうなっている? 死人が次々に甦って、動いたり、考えたり、喋ったりするじゃないか。こんな状況の中で、いったい本気で人を殺したりする奴がいるんだろうか?


もちろん反語的な問いなので、作中では「いないのではないだろうか」という前提で推理を進めます。そしてわたしも読んでいる最中は特別にはひっかからなかった。なるほどそうか、くらいに読み進めました。でも、あとからふと思ったんです。これはおかしいぞ、と。動機によっては、いくらでも「いる」のではないかという気がします。相手が何度甦っても、それでも殺さずには(殺したいと思わずには)いられないような動機ってあるような気がします。ちょっと怖いことを言っているけれど。


わたしは『幽遊白書』という漫画の中での、戸愚呂・兄 vs 蔵馬 の対決を思い出します。戸愚呂・兄は何度でも甦る能力を持ったキャラクターなのですが、蔵馬はその敵にある植物を植え付けて、戸愚呂・兄を「死(の寸前)と再生」をひたすら繰り返すだけの、まさに「生きた屍」にしてしまいます。「お前は死にすら値しない」とは蔵馬の名セリフ。


やっぱり、「いる」と思う。