『怖るべき子供たち』ジャン・コクトー 訳:東郷青児


家庭内読書会「古典的名作を読もう」企画、第三回課題本。


子供たちの雪合戦の場面から始まります。そこに描かれるのは純白の小さな輝きや、あるいは幼い無垢な心模様ではなく、灰色がかった無邪気であるが故の残忍さように感じます。


わたしはその灰色の残忍さに、ある種の救いを見ることができなくはありません。そういうものに救いを求める気持ちが、わからなくもありません。そういう小説であれば、好きにはなれなかったとしても、近づいてみようという気持ちになったと思います。


ポールの姉エリザベートの登場によって、この小説は「灰色の残忍さの中に、ある種の救いを求める」のではなく、その救いの脆弱さをあぶりだそうとする小説のように感じました。灰色の中でさまよう救いは、その脆弱性をあぶりだそうとする残忍さに勝てません。エリザベートの死は、その残忍さを完全に肯定するものとして描かれているようにわたしには感じられました。


わたしはこの小説を読みながら、なぜか三島由紀夫のことを思いました。言葉にできるような類似点や共通点を見たわけではないのですが、三島由紀夫の作品を読んでいるときと、何かしら同じような感覚を抱いたのかもしれません。そして三島由紀夫のことを思ったら、太宰治にも繋がりました。


太宰治の文章を読んでいると、この人に近づくのは危険だなぁと思います。でもそれは、近づいてみたい気持ちにさせることも含めた危険性です。この人と関わったらどうなるのかということに興味を抱かせる魅力が太宰治にはあります。そしてそれはきっと、彼の文章の「人間臭さ」に起因しているのだろうと思います。
一方、三島由紀夫の文章を読んでいる限り、わたしはこの人には絶対に近づきたくないと思います。おそろしくて嫌です。彼に興味を持つのだとしても、遠くから眺めるだけにとどめたいと心底思います。
そしてジャン・コクトーは、この作品を読んだ限り、太宰治三島由紀夫の間にあてはまります。多少細かく言うなら、太宰と三島の間の、どちらかといえば三島寄りにあてはまります。自分からは一切近づきたくはないけれど、もし相手が気紛れに近づいてきたら、逃げも隠れもしないけれど、すり抜けたい、と思います。