『夜はやさし』F. スコット・フィッツジェラルド 訳:森慎一郎


もうずっと前(何年も前)に買って、そのまま読まずに置いてあった本です。


今年の7月に書いた『グレート・ギャツビー』の感想文で、わたしは次のようなことを言っています。


「美しい日本語だなと思う小説にはこれまでにも(その数は決して多くはないけれど)いくつか出会ったけれど、その日本語よりも、そこにある情景や状況が美しいという小説はちょっと他に思いつきません。」


フィッツジェラルドが日本語を書いたわけではないので、「日本語」というところを「文章」に変えたほうがいいのかもしれません。


夜はやさし』も同じことをわたしに思わせる小説でした。


ある場面がそこにあって、その場面を描いた文章が美しいということと、場面そのものが美しいということは明らかに違います。けれど、わたしが手にしているものが「文章」だけである場合に、どうして「なんて美しい文章なのだろう」ではなく「なんて美しい光景なのだろう」と思うのか、その理由を説明することがわたしにはできません。でもスコット・フィッツジェラルドの小説はそう思わせるのです。そしてそう思わせる小説を書いた作家は、わたしの数少ない読書経験からは、今のところスコット・フィッツジェラルドだけです。


『グレート・ギャツビー』の感想文の中でわたしは「言葉の美しさが場面の美しさを凌駕しているのではなく、言葉はただただ場面の美しさの前にひれ伏しているだけなのです。」と書いています。でも『夜はやさし』ではまた少し違ったことを思いました。スコット・フィッツジェラルドの文章は、場面の美しさをとても愛している、と。自分が目にした光景(想像したものも含めて)を、とても愛している。そして、だからこそなのだろうけれど、その視線はとても厳しい。


こんなふうに世界をみることができたら、人生は本当にただじゃすまないだろうなという気がします。