『ヴィヨンの妻』太宰治


家庭内読書会「古典的名作を読もう」企画、第八回課題本。ようやく一週間遅れまで追いついて、こちらは5月の課題本です。


短編集。自分で選んでおきながら、書きたいことがあまりありません。「ああ、いったいこの先はどうなるのだろう」という次頁への期待を、ある一編においても、短編集全体においても、わたしはほとんど持つことができませんでした。
だからと言って、これが駄作だと言うのではありません。特に表題作の「ヴィヨンの妻」、この作品に漂う哀しい空気の巧みさと言ったらもう、やはりさすがの太宰と思わずにいられません。それに続く「おさん」もまたしかり。太宰治の名を挙げておいて、その作品の巧拙を云々することはできません。うまいものはうまいのです。


しかし、この短編集には「期待」がまったくと言っていいほど欠けているように思います。「期待」とはすなわち、明るい陽射しへと向かって行く予感のようなものですが、それがここには見当たりません。外から眺めていれば陽射しがどこにあるかだいたい見当がつくのですが、中にいる主人公たちは、別の方へ別の方へと進んで行ってしまって、たとえばもし、こちらから手を振って呼んだとしてもふいと背を向けてしまうだけでしょう。


解説には「太宰はその本質において倫理的な人である」とあります。「家庭のエゴイズムを憎悪しつつ、彼は新しい家庭の夢を追うたと云ってもいい。倫理に反逆しながら、新しい倫理を求めたと云ってもいい。その最大の証明は彼の抱いた罪の意識である」等々、とあります。


まあよくわからないけれど、わたしには、ただ世の中に対してふてくされてるだけのように見えなくもないのです。ただすねている。この短編集だけからだと、そう捉えられなくもないのです。倫理とか、憎悪とか、夢とか、罪の意識とか、まあたぶんあるんだろうけれど、でももういいオトナなんだからさ、ぐだぐだやってないでしっかりしてくださいよ、というのがこれらの短編を書いた作者へのわたしの意見です。



まあまあ書きたいことあったね、わたし。