『行人』夏目漱石


今この目の前にある光景を、今ここに沸き起こってきた感情を、言葉で伝えるにはどうしたらいいだろうと思ったとき、言葉では到底無理だという諦めをひっくり返してくれるのは、ああやっぱり漱石の文章なのだという喜びが、漱石の作品には常にあるのですが、『行人』はわたしがこれまでに読んだ漱石の作品の中で、その喜びがもっとも小さかったように思います。


一枚のキャンバスの中から匂い立つ空気を言葉にすることでそのキャンバスの中に動く人間の気持ちを表現するというよりは、たしかに目に映る人間の行動を、耳に聞える声を、あらわにされた情動を文章にすることで、その人間の内部を描こうとしているように感じられます。表面に近いところから奥へと向かって、少しずつ彩色していく。しかし、それによって内部はより明らかになっていくのではなく、どこまで色を施しても、色のついたその一歩先は暗く、そこには誰の手にも届かない孤独があるだけです。作中では特に「一郎」の孤独が主軸となって、その孤独に弟の二郎が少しずつ、遠方から周回するように近づいていきます。


この作品は二郎をはじめとして、登場人物のそれぞれが様々な形で一郎の孤独を取り巻いているのですが、わたしにはその周りの人物の内部にもあまり手が届きませんでした。「内部」は「真意」と言い換えてもいいかもしれません。彼らの行動や発言や感情はそのまま文章によって明らかにされているのに、その「真意」を、どうやら漱石の筆は巧妙に隠しているようなのです。だから、すべて明らかにされているようで、なにひとつはっきりしないのです。そして「すべてが明らかにされているようで、なにひとつはっきりしない」というのは、まさに現実の光景だということに気がつきます。


わたしの喜びが小さかったのは、キャンバスに描かれた絵がはっきりしなかったからでしょう。でも、漱石の目にはいつも世界がはっきりと映っています。