『エデンの東』ジョン・スタインベック 訳:土屋政雄


家庭内読書会「古典的名作を読もう」企画、第11回課題本。

ハヤカワepi文庫で4冊の長編です。


長い物語を読もうというときには「つまらなかったらどうしよう」という当然の心配があります。つまらない小説が長いということほど残念なことはありません。『エデンの東』はその意味で、またひとつ新しい経験をわたしに与えてくれました。


物語の冒頭は、小説舞台の描写から始まります。山があって、谷があって、川が流れていて、というような記述です。そう、これはただの描写で、ただの説明です。でもすでにおもしろいのです。ただの説明なのに、そこにはもう「予感」が漂っています。このページの先には何かが待っているという胸をふくらませる予感です。ということは、これは「ただの説明」ではなく、すでに「小説」なのです。だからおもしろいのです。文章は説明にも小説にもなれます。文章を小説足らしめることがいかに難しく素晴らしいことか、この冒頭を読めばわかる、そういう経験でした。


「つまらなかったらどうしよう」という心配が、「この先には何かが待っている」という期待に変わる。しかも「何か起きる前から」変わる。それはわたしにとって新しい経験だったように思います。すくなくとも、これほど意識的に自覚したのは初めてだと思います。さらに言えばこの小説の「予感」は冒頭だけではありません。それどころか常にあったといってもいいように思います。どこまでいっても「予感」が用意されていて、わたしは今そこで起きている事件や出来事よりも、基本的にはその「予感」に心を奪われながら、彼らの物語を見ていたような気がします。


今、この瞬間の出来事に心を奪われていると断定できるシーンもふたつありますが、それはわたしが泣いたからです。ひとつは彼の居場所がみつかったシーン。もうひとつは彼の居場所が失われたシーン。わたしはこの物語で2回泣きました。


もうひとつ書いておきたいことがあります。

この小説には最初から最後までずっと、ある「匂い」が漂っていました。幸せなときも、悲しいときも、恐ろしいときも、苦しいときも、涙のときも、札束が広げられているときも、初々しい恋があるときも、血が流れているときも、変わらずずっとわたしが嗅いでいたのは、「土の匂い」です。「予感」を引きつれてきたのはこの匂いではないだろうか、そんなことを考えています。