『幻影の書』ポール・オースター 訳:柴田元幸


ひさしぶりにポール・オースターを読みました。現代作家でわたしが今いちばん好きな作家です。最後に読んだのは『オラクル・ナイト』だったと思います。『幻影の書』は『オラクル・ナイト』のひとつ前の作品なので、わたしは発刊とは逆の順番で読みました。


『オラクル・ナイト』の訳者あとがきで、作者本人が「『幻影の書』が交響曲だったとすれば、今度の本は弦楽四重奏だね」と言っていた。と、書かれてあったのが気になっていました。弦楽四重奏交響曲という比較であるならば、交響曲である『幻影の書』は、『オラクル・ナイト』よりも重厚で、スケールが大きく、あるいは複雑であったり、絡み合う要素も増えるのかもしれないと思えます。『オラクル・ナイト』を弦楽四重奏に例えたオースターが、交響曲だといった『幻影の書』はいったいどんな作品なのか。


残念ながらわたしには弦楽四重奏交響曲を比較したときの違いをふたつの作品で感じることはできなかったのだけれど(柴田元幸さんは、オースターのこの例えを「的確な自注」と書いています)、作品世界の音楽をわたしなりに聴くことはできたと思います。しかしそれは、作品の出来栄えとは別に、あまり心地のいい音楽ではありませんでした。また、様々な不幸をなぎ倒していける力のある音楽でもありませんでした。希望に満ちた音でも、悲哀を憂い、またその美しさを称える音でもありませんでした。青い湖に張った薄氷が割れた中を、誰かが必死にもがいている、あるいは切り刻まれるほどの冷たさに静かに身をゆだねている、その溺れた身体の周りで氷と氷がぶつかりあっている。そういう誰の耳にも届かない悲鳴や、諦めや、かすかな祈りが、風や木や空気にこだましてできる交響曲のような音楽。そのようにわたしには聞こえました。


山の中で不意に聞こえてきたこだまが誰のものかわからないように、この物語がいったい「誰」の物語だったのかをつかみかねる虚構感をわたしは覚えました。視点は常に主人公のものでしたが、物語の中心は誰か別の人間にあったような疑いを拭えません。見ていた世界の転調を、そういう音楽として受け入れてしまう心地よさと、音階の進行を疑い続ける楽しさとを与えてくれる作品のように思います。





あ、そうだ。関係ないけど、メリークリスマス。