『切りとれ、あの祈る手を <本>と<革命>をめぐる五つの夜話』 佐々木中


小説ではなくて、人文書


ギャンブルってみなさんは好きですか?わたしはまったくダメなんです。競馬やパチンコももちろんしないのだけれど、そういう「賭け事」の代名詞のような存在だけではなくて、たとえば投資、あるいは宝くじ、はたまた福袋のようなギャンブル性のあるものまで含めて全部ダメなんです。一切手を出さない。最初からお金を使う(捨てる)ことが目的ならやることもあるかもしれないけれど、「賭ける」となったらできないです。やりたくない。すごく勝率の高い賭けでも、いやです。負ける可能性がゼロじゃないなら手を出さない。賭けるって、できないんです。


すごく身近なところでも、例えば。


わたしはレストランで働いています。お昼は11時オープン、14時ラストオーダーです。その日は予約で満席だったとします。そこに新たに予約希望のお客様から電話がかかってきたとします。その方の入店希望の時間は13時30分。予約帳を見ると、11時にご予約のお客様が3組います。このお店でのお客様の平均滞在時間は2時間です。さてどうするか、というお話。「11時予約の3組のうち最低1組は空く」ことに「賭けられる」かどうかということです。


わたしにはできないのです。でも「大丈夫です、お席をご用意します。」って言えちゃう人もいるんですよね。それがわたしにとっては「ギャンブルのできる人」にあたるわけです。もちろん実際にはもっと細かい状況がいろいろと絡んできて上の例のように単純ではないのだけれど、わたしが「賭けられない」ことに変わりはありません。レストランで働いていると(といっても、どんな仕事でもきっとあるとは思うのだけれど)、この「賭けられない」というのは、けっこういろいろな場面で足を引っ張ります。かなり助けられることも、もちろんあるのだけれど、ね。


そう、仕事上のことだけではなく、わたしは様々な場面で、というよりは、ほぼありとあらゆる場面で賭けてこなかった。そして、今までずっと「ただ賭けてこなかっただけ」なんだ、と思ったのです。能力が及ばなかったのではなく、ただ「賭けなかっただけ」なのだと。本書『切りとれ、あの祈る手を』を読んで、そう思ったのです。お金だけじゃなくて、運や偶然だけじゃなく、時間と意志を、賭けてこなかった。



本を読むときによく、
この本を読んでいる時間はいったいなんなのだろうと思うように。
ここにこうして感想文を書くときに、
ここにこうして感想文を書いている時間はいったいなんなのだろうと思うように。
本を読んでいる時間も、感想文を書いている時間も、ただの無駄で終わるのかもしれない、という考えにさいなまれてしまうように。


自分が過ごす時間を「賭けて」こられなかった。
と同時に、結局わたしはずっと「賭け」の勝利を望んできた。
ルーレットを前にチップを積み上げるだけで、ベットできないままに。


賭けるよ、今までの分も、今から。