『ブルックリン・フォリーズ』ポール・オースター 訳:柴田元幸


いつもとてもおもしろい小説を書くオースターの、やっぱりいつもの通りの魅力ある小説。


ある著名な作家、あるいは自分の好きな作家が書いた作品はどれもおもしろいというのはよくあることで、だからオースターがまたひとつおもしろい作品を書いたからと言って別に驚くようなことでもないのだけれど、でも、あるひとりの人間がいつもおもしろい作品を書くというのは、考えてみたらとんでもない能力だということを今更ながらに思って、結局驚いてしまいました。何を読んでも(書いても)おもしろくてすばらしいなんて、いったいぜんたいどういうことだ?


わたしはどちらかといえば古典とされる小説を読むことが多く、オースターを除いては今生きている作家の作品をすすんで手にすることはあまり多くありません。それは現代作品よりも古典作品のほうが楽しめる可能性が高いと思っているからなのですが、『ブルックリン・フォリーズ』には「現代」作品が持つ重要さを感じることができました。当然のことながらわたしがふだん読む古典作品もそれが書かれた時点では「現代の作品」だったのであって、その時代に、その時代の出来事や風景や思想を作品の中に息づかせるというのは、とても重要で切実なことだなと思いました。幾星霜を経ても魅力的であり続ける作品も、書かれた時代と無関係に生み出されたわけではなくて、その時代に生まれ、その時代に生きた、その人だけにできた業績なのかもしれない。だから現代作品をもっと読もうと思う、という話ではまったくないのですが、ただ、わたしは今という時代をなんとなく軽視しているような気がして。昔のほうがよかったと思っているわけでも、未来のほうが重要だと思っているわけでもないのだけど、それでも、今という時間はそのうちすべて過去になるだけだと思っているようなところがある。それはなんとなく反省すべきことのような気がして。なんとなくだけど。


未来に向かって、今という時間を発信することを、わたしはあまり必要だと思うことができないのだけれど、今という時代に対してもう少し視野を広げて、多角的に、批判的に、真剣に、強い気持ちをもって見つめてみることは、いいことかもしれないなと思いました。


ところで、作品のことを何も書かなかったので、ひとつくらいは言っておこうと思います。わたしは読み終わって数週間が経った今でも、主人公のネイサンが恋焦がれるマリーナにネックレスをプレゼントしたことが、物語中の様々な人たちの様々な愚行の中でもっとも愚かだったと思う。