『カラマーゾフの兄弟』ドストエフスキー 訳:原卓也


何度目かの再読。もう一度読み返したいなぁと思うたびに、でも長いし大変だしまたいずれそのうちすごく読みたくなったときに、と思って放っておいても、きちんとその「いずれそのうち」がやってくるところが、この作品の毒性です。なんで読みたくなるのやら。と、問いつつ答えは明白で、本を繰り返し読む理由なんて「読むたびにおもしろいから」に決まっています。一度や二度では味わいつくせない楽しさを、この作品が持っているのでしょう。


ところで前読んだときにわたしはどんなことを思ったのだっけ?と、以前ここに書いた感想文を読み返してみたのですが、なんだかひどいですね。やっぱり自分の昔の文章なんて読むものじゃありません。知ったかぶりが溢れ出ている上に興奮してて最悪です。しかも書いたときにはある程度満足していたのでしょうから信じがたい。とても未熟で下手くそです。今ここに書いているこの文章も、のちの自分には散々に映るのかもしれないけれど、でもまあ書くしかない。


そう、書くしかない。それは、文章が上達するためにというわけではなく、記録を残すためにというわけでもなく、未来の反省材料をわざわざ拵えておくためにというわけでももちろんなく、そういう理由もあるにはあるけれど、結局のところ、読んだらもう書くしかない、ということです。書くしかないという状態に心が陥っている、ということです。さらに言えば、書いたものは読んでもらうしかない、ということです。下手な文章を読ませるなと怒られるかもしれないけれど、怒られるのもそれはそれでしかたありません。下手なわたしが悪いと思うし、下手な文章にめぐり当たってしまった方には申し訳ないとも思います。でも、読んだら書くしかないし、書いたら読んでもらうしかない。


というのが、過去の自分の下手くそな文章を読んで、あれこれ思った末のひとまずの解答です。失礼しました。


前の感想文を読み返すと、わたしはドミートリイの弁護士フェチュコ―ウィチをいたく気に入っているのですが、わざわざ言うほどの魅力ではないと思うに至りました。いっぽうでアリョーシャがスネギリョフにお金を渡そうとするシーンや、スメルジャコフ誕生のシーンは、前回も言及しているとおりやはり今回も印象深かったです。そして今回、これまであまり気にとめることのない登場人物だったカテリーナ・イワーノヴナが、わたし個人にとって鮮烈なデビューを果たしました。いや、いままで気にとめることがなかったことのほうが不思議です。今はグルーシェニカよりもよっぽど色濃く、物語にとっても重要な存在だという気がします。



この感想文を目にするのも恥ずかしくなる頃に、またこの作品を読み返して、またあれこれ思うのでしょう。




      



追記

読み終わった頃にはもうすっかり忘れていたのですが、家庭内読書会「古典的名作を読もう」企画、第18回課題本。でした。